映画を観る準備はできている。

映画についてのいろいろな話。

あなたの隣りにいるかもしれない人「クリープ」

※ネタバレがあります。

 

 

予告編

 

日本語の予告編は見つけられなかった。英語の予告編はあったけれど、けっこういいシーンを見せてしまっているため、見ない方がいいんじゃないかと思います。

 

あらすじ

 

カメラマンのアーロンは山中の家で一日撮影するだけで高額の報酬をもらえるという仕事を受ける。依頼主ジョセフは病気のため余命いくばくもなく、まだ生まれていない子どものため自分の映像を残したいのだと言うが…

 

感想

 この映画、低予算なのだろうな、と思う。監督パトリック・ブライスはアーロン役で出演もしていて、脚本も彼とジョセフ役のマーク・デュプラスが担当。というか、IMDB情報だけれども、二人の会話はだいたいアドリブらしい。主な撮影場所はアーロンが招かれるジョセフの「別荘」、別荘のある山、アーロンの家、ダイナー、くらいだし、画面に映るのはこのアーロンとジョセフの二人だけ。見るからに、「わかるよ…お金、ないだろ…?」という感じなのだ。しかし、もちろん、我々映画ファンならようくわかっているように、お金があれば面白い映画が撮れるわけではないし、お金がなくても面白い映画は撮れる。「クリープ」はそれを証明している。

 ジョセフがね。ものすごく怖いんですよ。

 ジョセフは、「13日の金曜日」のジェイソンや「悪魔のいけにえ」のレザーフェイスのように、10メートル先からでも明らかに近寄ってはいけないことがわかる、現実離れした悪役ではない。たとえば「ヘンリー ある連続殺人鬼の記録」のヘンリーのような、「ウルフクリーク 猟奇殺人谷」のミック・テイラーのような、一見普通に見えて、その辺にいそうな人だ。その人が、話しているうちに、少しずつ少しずつ、「実は関わってはいけない類の人」だったことがわかっていく。

 私が一番怖かったのは、夜、山荘のベランダで二人が話すところだ。アーロンが懸命に話をしている途中で、ジョセフがいきなり走り出す、そのタイミング。これは実際見てもらわないことにはわからないだろう。ジョセフはこの後もっと厭ーな、異常な行為を行うのだが、暴力的とは言えないこのシーンが、ジョセフの異常性をもっともよく表していたと思う。

 たとえば殺人鬼が人体を切り刻むとか、モンスターが襲ってくるとか、そういうわかりやすい、派手な恐怖ではない。この映画に描かれているのは、「アパートの隣りの部屋に客が来るところは見るけど帰るところは見たことがない」「三日連続で帰り道に同じ人とすれ違っているような気がする」みたいな、地味で現実にありそうな、あなたの隣りでも起こりそうな、そういう恐怖だ。その手のホラー映画が好きな人は、まさにCreep(ぞっとさせる奴)なマーク・デュプラスに目を奪われてほしい。

 

ちなみに

 

・続編「クリープ2」も制作されており、こちらもネットフリックスで観られる。

 

・こういう動画で紹介されたのを見てこの映画を知りました。

Honorable mentionにある「ヴェロニカ」もネットフリックスで観られるらしい。

 

www.youtube.com

 

・ジョセフ役マーク・デュプラスは「ブルージェイ」という映画にも出ている。大人になってから再会した高校時代の恋人同士の話。共演はサラ・ポールソン。デュプラスは脚本も担当。これが予告編だが、あ、あれ、デュプラスさんが…素敵…?(おまえ失礼な)

※ネットフリックスで観られます。

 

www.youtube.com

 

誰もが帽子にサンドイッチを隠している。「パディントン」

※ネタバレがあります。

 

 

 

予告編

 

www.youtube.com

 

 

あらすじ

1958年に第1作が出版されて以降、世界40カ国以上で翻訳され、3500万部以上を売り上げるイギリスの児童文学「パディントン」シリーズを初めて実写映画化。真っ赤な帽子をかぶった小さな熊が、ペルーのジャングルの奥地からはるばるイギリスのロンドンへやってきた。家を探し求める彼は、親切なブラウンさん一家に出会い、「パディントン」と名付けられる。ブラウンさんの家の屋根裏に泊めてもらうことになったパディントンは、早速家を探し始めるが、初めての都会暮らしは毎日がドタバタの連続で……。「ハリー・ポッター」シリーズを手がけたプロデューサーのデビッド・ハイマンが製作。ニコール・キッドマンらが出演し、パディントンの声は「007」シリーズのベン・ウィショーが担当。(映画.comより引用)

 

実は原作が苦手なんだな

 

告白すれば、原作の「パディントン」が苦手だった。繰り返される「暗黒の地ペルー」という言葉に、そこから来たもの言う熊がイギリスで巻き起こす騒動に、遠い異国からやって来た、違う文化を持った人々への差別的なまなざしを感じずにはいられなかったのだ。原作を手に取ったのはもう何年も前、大学生の頃だっただろうか。まあ当時からめんどくさいことを考えがちな人間だったのである。

 そんなわけで、少しだけ構えて観た。特にお風呂でのくだり(歯ブラシを耳に使う、シャワーと戦う、など、「文明の利器を理解していない」描写ですね)や、元々の名前が熊ゆえに人間には発音が難しいため、人間が呼びやすい名前を割と適当につけられるところなどに、内心ひやひやしながら観た(たとえば外国の映画やドラマに出てくる日本人の名前がやたら「トシ」とか「ヒロ」とか、正式な名前を縮めたようなものであることにもやもやするのと通ずるところがある)。お前はそんなことはスルーして純粋にCGのもふもふの熊が騒動を引き起こすキッズ映画を楽しめばいいのではないか。声なんかベン・ウィショーだぜ。しかし性分なのでいろいろと考えることなしには観られないのである。

 ミスター・ブラウンや隣人カリー氏がパディントンに向ける「異物を見る目」は、現実世界で移民が向けられるであろうまなざしと重なる。やつらは危険だ。うるさい。関わりたくない。さて、はたしてこの物語はここからどこへ向かうのか。多かれ少なかれ原作がそうであったように、ただ野蛮な国からやって来た文化的でない生き物が巻き起こす騒動を面白おかしく描いて笑いものにする話で終わるのか?

結論から言えば、そうではなかった。この映画、いい意味で、原作とは別物になっているではないか……!

 

私たちは同じなのだということ

 

まずいいなあと思ったのは、ジュディが語学に堪能であり、彼女だけはパディントンの「熊語」を発音、理解できるというところ。さらっと出てくるんだけれども、これは重要なポイントである。熊が人間に合わせて人間の言葉をしゃべるだけではなくその逆もやればできるのだということを、そしてこの子はそれをやろうとしているのだということを、映画の作り手はさらりと見せてくれた。向こうが自分たちの言葉を話すのを当たり前とみなすのではなくて、相手の言葉を覚えてそれでものを言おうとする、その時ふたりは対等になるのだ。ジュディがパディントンと築こうとしているのはそういう関係だ。

そして雨に濡れたパディントンがロンドン名物のあの黒い帽子をかぶった兵隊に雨宿りさせてもらうところ。ここはめっちゃ笑える場面なのだが、この兵隊さん、あのでかい帽子の中からサンドイッチを取り出すのですよ。パディントンが大事なマーマレードのサンドイッチを帽子の中に隠しているように。所は違い、種族は違えど、誰もが皆帽子の中には大事なサンドイッチを隠しているのです。これは真面目に言うのだが、ここは生きとし生ける者すべてのつながりを表す名場面なのです。

 

ミスター・ブラウンとChosen Familyとリナ・サワヤマとエルトン・ジョン

 

そしてそして、屋上のシーンで、「家族ですって?種族も違うのに」と言うミリセントに向かって、ミスター・ブラウンが言う台詞。

「生まれが地球の裏側だろうが/種族が違おうが/皆パディントンが好きだ/だから家族なんだ」

ミスター・ブラウン、それめっちゃ「Chosen Family」やないかい……!

 

www.youtube.com

上の動画で英国で活躍するアーティストのリナ・サワヤマとエルトン・ジョンがデュエットしている「Chosen Family」という歌は、リナ・サワヤマがLGBTQ+の人々を想って書いたという歌だ。

 

spincoaster.com

血のつながった家族から理解されず、家を追い出されたり虐待を受けたりすることも少なくないLGBTQ+の人々は、自分たちのコミュニティの中で家族を築き支え合ってきた。”Chosen Family”とは本来そういう家族を指す言葉である。

だが、リナ・サワヤマが体験したこと、そしてその体験を経て、元々のバージョンをリリースしてから約一年後に上のデュエットバージョンをリリースしたことを考え合わせると、そこにはもう一つの意味が立ち上がってこないだろうか。

リナ・サワヤマが2020年にリリースしたファースト・アルバム、「SAWAYAMA」は非常に高い評価を受けた。「Chosen Family」もこのアルバムに収録されている。

しかし、それにもかかわらず、彼女は英国の音楽に与えられる賞、ブリット・アワードやマーキュリー賞にはノミネートされなかった。なぜか。彼女は日本出身で日本国籍を有しており、英国籍を持っていなかったからだ。子どもの頃から二十年以上英国に暮らしていて、「ここでの暮らししか覚えていない」のに。

「多くの移民たちがこういうふうに感じていると思います――同化し、ブリティッシュ・カルチャーの一部になった場所で…ノミネートされる資格さえ私たちにはないのだと言われるのは、酷いよそ者扱いだと」

I think a lot of immigrants feel this way - where they assimilate and they become part of the British culture... and to be told that we're not even eligible to be nominated is very othering."

 

 

その後彼女の声は聞き届けられ、ブリット・アワード及びマーキュリー賞の選考基準は改められた。新基準の下では、リナ・サワヤマも選考対象になる。

 

www.bbc.com

そしてリナ・サワヤマを早くから高く評価していたうちの一人がエルトン・ジョンだった。彼は2020年6月の時点で「SAWAYAMA」を「現時点で今年最高のアルバム」と言っている。

 

www.nme.com

以上の経緯を踏まえると、この歌詞が、文化の違いを超えて繋がる人々の姿にも重なって来ませんか。

 

同じ遺伝子や苗字を持っている必要はないの

あなたは

あなたは

私の選ばれた

選ばれた家族

We don't need to share genes or a surname

You are

You are

My chosen

Chosen family

 

 

 

種族の違うパディントンを家族だと言い切るミスター・ブラウンの姿に、私はこの歌詞を思い出して、泣きそうになってしまったのだった。

「違い」を指さして笑うのではなく、「違い」はあるけれど家族にはなれるんだよ。これがそういう物語になっていて、本当によかった。

 

ちなみに

 

・パストゥーゾおじさんの声はマイケル・ガンボン、ルーシーおばさんの声はイメルダ・スタウントン。豪華や。

 

・今となってはベン・ウィショー以外の声が考えられないけれども、パディントン役は当初コリン・ファースだった。パディントンが形になっていくにつれて、「私の声ではない」と悟った、とファース氏は語っている。

variety.com

クソはクソなのでクソだと叫ぼう―「激怒ブログ」を読んだ人にお願いしたいこと

 

わりと真面目にお願いしたいこと

 

「例のアセクシュアル漫画を読んで激怒したアセクシュアル当事者が、7000字かけてそのグロさを叫ぶ文。」(タイトル長えなおい。以下「激怒ブログ」ね)という文章を書いた。そしてツイートでその文章へのリンクを貼った。現在そのツイート(以下「激怒ツイート」)は2259RT4560いいねされている。その後のツイートでも書いたことだが、私が最後に確認した時、「例のアセクシュアル漫画」が貼られたツイートには1300を超えるいいねがついていた。激怒ツイートはその3倍以上のいいねをもらったことになる。「はっおまえいいね数で競ってんの?いいねいっぱいもらえた方がエライのかよw」とか思う人もいるかもしれないのだが、そういうことではない。私は純粋にうれしいのだ。性加害を軽視し他者のセクシュアリティを尊重しない例の漫画より、それをクソだという文章のほうが「いいね」と思う人が多かったということがうれしい。みなさん拡散してくれてありがとう。読んでくれてありがとう。

...とお礼をしてこの文章を終わりにすることもできるのだが、もうちょっと話を聞いてもらっていいですか。私にはわりと真面目にお願いしたいことがある。

 

漫画は人を殺す

 

 激怒ツイートは割と真剣にびっくりするくらい肯定的に受け入れていただき、「わかるわかる」「それな」「ですよねー」という反応が本当に多かった。しかしTwitter名物クソリプラーがまったく出没しなかったわけではない。本当にわずかなクソリプの中に、「漫画なんだからさ、何が描いてあってもいいじゃんか」(※言い回しは変えています)というものがあった。しかしクソリプラーはなぜクソリプをするのだろうか。クソな考えはクソな自分の頭にだけ留めてはもらえないだろうか。自分のクソをまき散らすことでこの人々は快感を覚えるのだろうか迷惑な性癖だな。ということで私は件のクソリプラーをブロックしたため、ワン・クソリプラー・レスなTwitterライフを満喫している。クソリプラーはブロックしよう。どんどんどんどんブロックしよう。快適なTwitterライフを実現するのだ!

 閑話休題。私がこのクソリプを「クソリプだ」と思ったのは、漫画は人を殺すからです。

 「いやいやいやいくら何でも漫画を読んで死ぬなんてことないでしょ。大げさじゃね?」と思うかもしれない。でもね、どうか考えてみてほしい。ああいう漫画が描かれたのはああいう考え方をする人がいるからである。そしてああいう考え方――好きな相手に薬を盛って相手が望んでいない性行為に及んでしまえ、マイノリティをマジョリティ仕様に「治療」してしまえ――というのは全然珍しいものではない。悲しいことに。ああいう考え方は世の中にあふれている。それを特別に悪い事ではないとして受け入れている人が大勢いる。

 マイノリティや、性犯罪の被害者を絶望させるものの一つに、直接的な加害者ではない「世間一般」の人々が、自分たちに対して行われている非道な行為を「クソだ」とわかってくれないことがある。「漫画が人を殺す」というのは、そういうことだ。性加害やマイノリティへのコンバージョン・セラピーを特に批判せずコメディ調で描く漫画を描くということは、性加害を受けた人やマイノリティを直接殴るということである。そしてその漫画に

「いいね」するということは、「いいねもっとやれ」と言っているのと同じだ。

 想像してほしい。あなたがいじめを受けているとしよう。あなたは殴る蹴るの暴力を受ける。ばい菌だ汚いと言われる。あなたに暴力をふるいあなたに酷い言葉を吐いているのは一人だ。しかし、そういうことをしているのがたとえ一人だったとしても、あなたの敵は一人ではない。なぜならその一人以外の「みんな」が、あなたをいじめる者に向かって「いいぞもっとやれ」「殴る蹴るさいこう」「ばい菌呼びさいこう」と言い応援しているからだ。

 もし「みんな」が、あなたをいじめる者に向かって、「てめえやめろや」「暴力最低」「人をばい菌なんて言うな!」と言ってくれていたら、あなたの覚える絶望感はだいぶ違うものになっていたのではないだろうか。あなたは傷ついたとしても、でも「みんな」という味方がいることに力を得られたのではないだろうか。

 

クソをクソだと認識できない悲しさについて

 

 

「人を好きになる」のと「人を好きにしたい」のはまったくちがうんだぜ…

 

あのね...あなたが男であれ女であれどちらでもない者であれ、そして相手が男であれ女であれどちらでもない者であれ、相手が望んでいないのに性的な行為を行ったらそれは性加害ですよ…そして相手を傷つけてもそういう事をしたいなら、あなたは相手を好きなんじゃなく好きにしたいだけなのよ…

 

 いきなりどうした?と思われるかもしれないが、上記は私が激怒ツイート後に行ったツイートである。なんかキャラ違うんじゃね?と思われたかもしれないが、私は普段はどちらかといえばのんびりした人間であり、本当は上のようにやたら三点リーダーを使ってまったり話す人なのである。激怒ブログを書いた時はめっちゃ怒っていたので人格が変わっただけなのです。

まあそれはさておき、正直、私は上のツイートで特別目新しいことを言っているわけではない。要するに同意のない性行為はクソだ、相手が望んでないのにそんなことする奴はクソだ、そう言いたかっただけだ。

 しかし、クソをクソだと認識するという、それだけのことが時に難しいことがある。たとえば、恋人関係にある相手から望まない性行為をされたら?それは性加害であり、それをやった相手はクソであり、あなたは当然傷つく権利があるのだと認識することは難しくなる。「恋人とは、性行為をする相手」だからだ。これ↓は恋人から性加害に遭い、時間が経ってからやっと「あれは性加害だった」と気づくことができた人の告白だ。ぜひ読んでほしい。

 

 

www.huffingtonpost.jp

 

 この記事にあるのだが、

 

レイプや性暴力を「恋愛の要素」として描くことで、多くの被害者が「性暴力にあった」ことに気づくことが難しくなると思う。

 

 この部分を、私はうなずきながら読んだ。(アニメや漫画で)「性暴力を行う描写が、なぜか「胸キュン」として消費される(上の記事から引用)」ため、それが性暴力であり絶対にやってはいけないクソな行為だと認識しづらくなる――これは真実だと思うし、例のアセクシュアル漫画を放っておくことのできなかった理由の一つでもある。そういう表現は現実にあふれている。ちなみに記事内で言及されている「主人公が性暴力を受け加害者がヒーローでふたりは恋愛する」という漫画、私には何のことかわかるような気がする(試し読みでこの部分を読みあまりにも気持ち悪かったので読むのをやめた)のだが、これなんか映画になりアニメになり何十巻も単行本出てたもんな!

 そして私が悲しいと思ったのは、この記事を書かれた方のように、「自分は性暴力に遭ったのだ」と認識する事すらできない/できなかった人がきっと大勢いるということなのだ。性教育が足りず性暴力を是とする表現があふれ、要するに「誰もそれが性暴力だと教えてくれる人がいなかった」ばかりに。

 そもそも相手の望まない性行為をするのは、相手との間柄や、自分及び相手の性別にかかわらず絶対にやってはならない――その認識があれば、例のアセクシュアル漫画が性加害を無批判に描くこともなかったはずなのだ。たとえアセクシュアルのなんたるかをよく知らずとも、あんなにグロテスクな行為をコメディとして描くのがあかんことだとわかったはずだ。「相手の望まない性行為をするのはクソ。相手がどんな間柄だろうと、相手がどんな性別だろうとクソ」。どうか今日は最悪これだけは覚えて帰ってほしい。

 

クソをクソだと叫ぼう

 

 我々は箱の中に住んでいる。

 今度は何言い出したん?と思うかもしれない。でも本当だ。

 我々は箱の中に住んでいる。「アセクシュアルという言葉が存在しない箱」「デートレイプという言葉が存在しない箱」「コンバージョン・セラピーという言葉が存在しない箱」...その箱を開けて外に出、「アセクシュアルという言葉が存在する箱」に入ったら、「そういう人がこの世にいるんだ」とわかる。「デートレイプという言葉が存在する箱」に入ったら、「恋人から同意なく性行為をされるのは性暴力なんだ」とわかる。「コンバージョン・セラピーという言葉が存在する箱」に入ったら、「コンバージョン・セラピーで傷つく人がいるんだ」とわかる。

 「クソをクソだと認識できない悲しさについて」で紹介した記事は、きっと少なくない人を「デートレイプという言葉が存在する箱」にいざなったことだろう。で、こんなことを言うのはおこがましいかもしれないのだが、「激怒ブログ」によって「コンバージョン・セラピーはクソ」「薬を人に盛るのはクソ」「酒を飲みたくない人に酒を勧めるのはクソ」な箱にいざなわれた人がもしいるならば、私にはお願いしたいことがある。そう、これが「わりと真面目にお願いしたいこと」である。

 この先クソなものを見たら、「クソだ」って言ってくれませんか。

 差別問題が話題になった時、必ずと言っていいほど言われるのが、「差別をなくすなんて不可能だ」ということだ。

 それは本当かもしれない。自分ではっきりと楽しく差別を行っている人もいれば、知らず知らずのうちに差別的な態度を身に着け、無自覚にマイノリティを踏んづけてしまう人もいる。それはもうたくさんいる。そうした人すべてに考えを変えさせることなんてはたしてできるだろうか?

 だが、たとえそれが無理だとしても、私たちには少なくとも、差別を目にした時に「怒る」ことはできる。

 あなたはその差別についてよく知らず、「こんなのはいけない」と思いながらも、直接反論することは難しい、というようなことがあるかもしれない。でもきっと、どこかでその差別に反論している、あなたより詳しい人はいるはずだ。せめてその人を支持してほしい。「いいね」して。RTして。その人の言葉を広めて。それがきっかけになり、箱を開けて外に出ることができる人もきっといる。いつかどこかで箱を開けたあなたのように。

 そして、そうやってクソはクソだと言うあなたの姿が、誰かの力になることがきっとあるはずだ。

例のアセクシュアル漫画を読んで激怒したアセクシュアル当事者が、7000字かけてそのグロさを叫ぶ文。

 

閲覧注意

 

 この文章はTwitter上で発表されたある漫画に対する感情を吐露するものである...と言うと、当然、「その漫画って、何?」と思うだろう。ごもっともです。私はここで、その漫画へのリンクを直接貼ることもできる。

 しかし私はこの漫画についてはそれをするまいと思う。自分の体験を振り返れば、とてもそのようなことはできないと思う。

 なぜか。私はその漫画を読んで、自分でもびっくりするほどのダメージを受けたからだ。

 その理由を説明するには、まず明らかにすべきことがある。

 この文章を書いている私のセクシュアリティは、恐らくアセクシュアルに分類される。そして今話題にしている漫画とは、アセクシュアルを扱ったものである。その扱い方があまりにあんまりだったので、私は(とっくの昔に成人したいい年の大人なのだが)自分でも引くくらいに泣き、Twitterで自分の感情を嵐のように吐き出し、「猫ちゃんとかマ・ドンソクとか見たいよう」と弱音を吐き、そして心優しいフォロワーたち(と数多の猫ちゃん写真)によって不死鳥のごとくよみがえった。そしてよみがえったら今度はめちゃくちゃ腹が立ってきたのでこの文章を書いている。

 まあそういうわけなので私はその漫画を直接貼ることはしない。できるだけ広めたくないと思うからだ。タイトルだけはここに記すが、警告したい。この漫画はアセクシュアルの人間を盛大に踏んづけるものである。あなたがもし私のようにアセクシュアルであり、アセクシュアルの人間に向けられた誤解と差別と暴力を見たくないのであれば、見ないことをおすすめする。ストーリー等はこれから明らかにしていくので、元の漫画を読んでいなくとも、この文章は理解できると思う。

 問題の漫画のタイトルは「恋をしない男に恋した女の話」という。

※作者がアカウントに鍵をかけたらしく、これを書いている時点では(削除されていないかぎり、フォロワー以外は)読めなくなっているようだ。

 

おわかりいただけただろうか…

 

 問題の漫画のストーリーは以下の通りである。

 

 学生時代(制服からして中学か高校であろう)に告白した智之に「自分は恋愛感情を人に持てない。誰かとキスしたいとかハグしたいとかまったく思わない」からと振られた千津は、それでも彼を追い続け、十二年後も同じ企業で研究している。そしてとうとう完成したのは非性愛者である智之を「恋愛脳」にする薬。千津は飲み物にその薬を混ぜて智之に飲ませようとするが、結局罪悪感が勝って途中でやめる。千津が眠り込んだ後、その薬を飲んだ智之は、千津を仮眠のためのベッドに運ぶ際、彼女にキスしそうになるが、すんでのところで正気に返る。

 

 上記のストーリー要約から、おわかりいただけただろうか。この漫画の問題が。

 以下、思いつく限りの問題を述べてみる。

 

薬を盛ってはいけません。

 

千津は振られた後も智之を想い続ける。まあそういうことはあるだろう。それはいい。智之が研究者になるからと自分も研究者を志し同じ企業に就職する。それもいい(としよう)。しかしそうやって彼を想い続けた結果千津が何をするかと言うと、非性愛者を「恋愛脳」にする薬を開発して彼に飲ませようとするのだ。理由は「彼とイチャイチャしたい」から。

この漫画の問題点は今の数行にほぼ凝縮されていると思うのだが、何が問題なのかを私なりに整理してみよう。

まず、ごくごくあたりまえのことを言おう。人に薬を盛ってはいけません。

パソコンのキーで叩きたくもない言葉だが、レイプドラッグによる性犯罪被害が、実際に現実の世界で起こっている。加害者は睡眠薬などを被害者の飲み物等に混入させ、意識を失わせ抵抗力を奪ったうえで犯行に及ぶ。被害者と加害者が顔見知りである場合も多い。また、被害者が犯行時に意識を失っていたためにそもそも被害に遭ったかどうかがわからなくなってしまう、証拠保全が難しいなど様々な問題がある。たとえばこの記事↓などを参照していただきたい。

 

www.nishinippon.co.jp

 

そういう現実がある中で、「好きな人に薬を盛ってイチャイチャしちゃおう!」をラブコメ調(を、作者は目指したのだろうと思う)で描いていいわけがあろうか。いやない。

念のため言っておくと「イチャイチャ」の中身を妄想した千津の頭の中では、自分が智之に押し倒されるシーンが繰り広げられており、性行為が暗示されている。薬の効能で他人に望まない性行為(智之は最初千津を振った後、何度も同じ理由で彼女を拒んできたことが語られている)を行わせようとするそのあまりなグロテスクさにドン引きである。はっきり言うが千津がやろうとしているのはレイプドラッグを用いた性犯罪以外の何ものでもない。そして作者はそれをコメディとして描こうとしているのだ。

 

売り物としての非性愛者

 

そして上の「薬を盛ってはいけません。」を読んで、「ん?」と思ってほしい。

智之が非性愛者である必然性が、はたしてあるだろうか?

そう、この物語では、智之が千津を「タイプじゃないから」と言って拒絶し続ける異性愛者の性愛者であってもなんの問題もない。その場合千津が作るのは飲んだ者が近くにいる人間を好きになる惚れ薬とかになるのだろうが、違いはそれくらいだ。

ここで声を大にして言っておきたいのは、マイノリティがフィクションに登場する時、必然性なんか必要ないということである。いや、「非性愛者である必然性」とか言っといてお前思いっきり矛盾してない?と思うかもしれないが最後まで聞いてほしい。「マイノリティがフィクションに登場する時必然性なんか必要ない」というのはどういうことかと言うと、たとえばミステリーの名探偵や、強くてかっこいいヒーローや、同じクラスのちょっとダメだけど気のいいアイツや、フィクションに数限りなく登場するそういった人物が、特に何の理由もなくマイノリティであって何が悪いんだ文句でもあんのか言ってみろやコラ、ということである。マイノリティはただでさえ「マイノリティがマイノリティであるがための苦しみを味わう物語」に登場させられがちである。そういった物語はそういった物語でもちろん存在していていいのだが、今、いろいろなマイノリティが求めているのは、「マイノリティが、マイノリティをテーマにしているのではない物語に、フツーに存在する姿」である。たとえば「オールド・ガード」は死んでもよみがえる不死者たちの物語であり、アクション映画に分類されるべき映画だが、不死者のうち二人は男性カップルである。ストーリー上、別にこの二人が恋人同士である必要はない。親友同士であってもいい。でもこの二人は何のごまかしもなく、はっきりと恋人同士として描かれる。「なんでアクション映画にわざわざゲイカップルなんか出すんだよ。ポリコレか?」とか思った人、胸に手を当ててよく考えてみてほしい。これが男女のカップルだったらあなたは「なんでわざわざ男女カップルなんか出すんだよ」と思っただろうか?そうゆうとこやぞ。

 

www.netflix.com

(「オールド・ガード」はNetflixで観られるよ!おすすめだよ!)

 

閑話休題。で、問題の漫画だが、非性愛者である必然性がまったくないにもかかわらず、作者が智之を非性愛者に設定したのはなぜだろうか。これはマイノリティ当事者が切望する「マイノリティが、マイノリティをテーマにしているのではない物語に、フツーに存在する姿」なのだろうか。

んなわきゃないのである。この漫画はたとえ性愛者に対して惚れ薬を盛ろうとする話であったとしても上記の批判は免れないものだ。しかし性愛者に対して惚れ薬を盛ろうとする話であったとすれば、そんなもんクソ面白くもなんともなく、世に溢れかえっているので、ここまで拡散されることはなかっただろう。この漫画がここまで拡散され批判されることになった理由。それは「性愛者が非性愛者を『恋愛脳』にする薬を盛ろうとする話」だからだ。この漫画のオリジナリティはそこにしかない。つまりこの漫画は「非性愛」というマイノリティ性で「売ろう」としている作品なのである。

 世の中にはコンバージョン・セラピーというものがあってだな

 

そして、たぶんこの漫画の一番グロテスクなところがここである。千津が作ったのは「非性愛者を『恋愛脳』にする薬」。

私は言いたい。「なあ、コンバージョン・セラピーって知ってるか?」

こちらの記事↓(ごめんね英語です)などを読んでいただきたいのだが、コンバージョン・セラピーとは個人の性的指向ジェンダーアイデンティティを「矯正」するための行為を指す。嫌悪療法(望ましくない行為をしたら痛みを与える)、トーク・セラピー(あなたの性的指向ジェンダーアイデンティティは幼少時の虐待等のせいだと主張するなど)などのやり方があるそうだ。そんなもので性的指向ジェンダーアイデンティティって「治る」の?答え。

No credible scientific study has ever supported the claims of conversion therapists to actually change a person’s sexual orientation.

ある人物の性的指向が実際に変わるというコンバージョン・セラピストの主張を支持する、信頼に足る科学研究はない。

 

 

 

www.thetrevorproject.org

 

 更に、コンバージョン・セラピーは有害な影響を与える。こちらの統計によれば、LGBTQの若者で、自殺を試みたことのある人は、コンバージョン・セラピーを受けたことがない人で12%(これでもぞっとするような数字だ)、コンバージョン・セラピーを受けたことのある人では28%にのぼる。

 

www.thetrevorproject.org

 

 つまり現実にいる性的指向ジェンダーアイデンティティがマジョリティと異なる人々の中には、科学的に効果が保証されているわけでもない「治療」を受けさせられて自殺を図るまでに追い詰められている人たちが少なからずいる。自らを否定されるコンバージョン・セラピーが、かくも人を傷つけるものなのだということが、わかっていただけただろうか。漫画の話に戻ると、千津が作る「非性愛者を『恋愛脳』にする薬」とは、非性愛者の非性愛という性的指向を、性愛者の「イチャイチャしたい」という身勝手な欲望のために勝手に転向させるものである。しかもその転向は成功し、智之が性的欲求を覚える描写がある。この漫画で「非性愛者を『恋愛脳』にする薬」を飲むということはつまり、コンバージョン・セラピーを受けなおかつそれが成功するということなのだ。

 アセクシュアルである私がこの漫画を読むことで見たもの。それは、性愛者のおぞましい欲望のためにアセクシュアリティが「治療」される薬が作られ、その薬を飲んだ自分と同じアセクシュアルの人間がまんまと「治療」される瞬間だった。控えめに言っても吐き気がするぜ。

 

「非性愛者を『恋愛脳』にする薬」について考えてみると

 

 というか「非性愛者を『恋愛脳』にする薬」は「他者への興味」を「性的欲求」に繋げるらしいのですが、私性愛者の皆さんに訊いてみたいんですけども、皆さんは「興味のある他者」(兄弟とか友だちとか後輩とか)みんなに性的欲求を抱いていらっしゃるんですか?違うよね?ということは「非性愛者を『恋愛脳』にする薬」は「非性愛者を性愛者にする薬」ではなくて「興味のある他者に対して(恋愛感情などなくとも)強制的に性的欲求を抱かせる薬」ということでOK?考えれば考えるほどグロい薬だなおい!!

 

自分は麦茶が飲みたいっす先輩!

 

 突然だが私はアルコールが駄目な人である。同じくアルコールが駄目な人には「わかる」と言ってくれる人も多いと思うのだが、飲み会に参加していると、「善意で」アルコールが飲めるようにすすめてくれる人というのが世の中には一定数存在する。

 ここで話題にしているのは、一気飲みを強制したり飲み比べをけしかけてきたりする悪質な人びとではない。本当に「善意で」こちらがアルコールが飲めるようになればと「ちょっと試しに飲んでみない?」とビールをすすめたり、「やっぱり大人になったらお酒を飲む楽しさがわかるようにならなきゃね」と言ってきたりとかする人たちのことだ。

私は今怒っているので正直に感情をあらわにして言うのだが、この人たちがしていることはクソだ。

わかりやすく表すと以下の通りである。

 

「私たちはお酒が好き」→わかる。全然問題ないぜ。

「お酒飲むの楽しい」→わかる。全然問題ないぜ。

「だからお酒を飲む楽しさをお酒を飲めないあなたに教えてあげる」→なんでそうなるんじゃクソが。問題大ありだわ。

 

世の中では、大人になったらある程度は酒をたしなむ。そうする人が多数派でありそうすることは当たり前である。その多数派にとっての当たり前を、少数派はいとも無邪気に押しつけられるのだ。

「酒を飲む」を、たとえば「結婚する」「子どもを持つ」などに変えてみたら、「わかる」人もいるのではないだろうか。「アセクシュアリティ」も同じである。「結婚しない人」が「結婚っていいよー。してみたらわかるって」、「子どもを持たない人」が「子どもっていいよー。作ってみたらわかるって」と言われてきたように、「アセクシュアルの人間」も「恋愛/性行為っていいよー。してみたらわかるって」と言われてきたのである。

 自分がやって楽しい○○を、○○をしない人々に善意ですすめる全人類に問いたい。

 「○○しない人」が「○○しない」ことによって、あんた何か困るわけ?

 「○○しない人」は自分が「○○しない」だけである。いや「私は○○しないのであなたもしないで」と言う人も中にはいるかもしれんが、少なくともアセクシュアルの人間は自分が「恋愛/性行為をしない」と言っているのであって、「お前も恋愛/性行為をするな」と言っているわけではない。あんたの人生は「恋愛/性行為」によって豊かになり、あんたはそれで幸せなのかもしれないが、私たちは「性愛者の恋愛/性行為のある豊かな人生」から「恋愛/性行為」をマイナスした不完全な人生を生きているわけではない。私たちの人生は「恋愛/性行為」のない状態で完全なのであり、あるべき姿から何かが欠けているわけではない。

 早い話が、「俺は麦茶が飲みたいんすけど。先輩はビール好きだからビール飲んどきゃいいじゃないっすか。なんで俺にまでビール飲ませようとするんすか?」ということだ。

 

俺たちはディストピアに生きている

 

 そしてこれは見逃されがちな点かと思うのだが、私が恐ろしいと思うのは、この「非性愛者を『恋愛脳』にする薬」が、そもそも作られたということなのだ。

 一つの薬を作るまでにはたいへん長い道のりが待っている。このへんのサイトなどはわかりやすくまとまっているかと思う。

 

www.ds-pharma.co.jp

 基礎研究に2~3年、非臨床試験に3~5年、臨床試験に3~7年、承認申請と発売に1~2年...

 この「非性愛者を『恋愛脳』にする薬」が完成するには、何百億何千億の資金と、それだけの歳月が必要だったはずだ。私が考えたいのは、「非性愛者を『恋愛脳』にする薬」などというものに、それだけの予算が下りたのはなぜなのか?だ。

 実は作中で智之も「よく研究費おりたよな…」と言っている。私はそれに続く台詞を読んで「うへえ」となった。

少子化が深刻だからか…?」

う、うわあ。でもこの少し前の部分に、千津が薬の効果は「もって3時間程度」と言う場面がある。それを考え合わせると、見えてきませんか…この薬に「研究費を出す価値」が見出される理由が...

非性愛者を一時的に『恋愛脳』にして、少子化解消のために、子作りさせるためじゃね?

おいおい...もしそうだとしたらツッコミどころ満載だぜ…

非性愛者、アセクシュアル、と言ってもいろいろあって、それはこちらに(またしても英語だよごめんね)くわしい。

 

www.healthline.com

まあ上のページからもわかるように、非性愛者にも、「性的に他者に惹かれることはないが恋愛関係は持ちたい」人、「深い繋がりのある人になら性的な興味が湧く」人、などなどいろいろな人がいる。「パートナーのため」「子どもを持つため」になら性行為を行う、という人も。

そしてそういった諸々や、そもそも非性愛で何が悪いんだ問題や、非性愛者の人権などなどを全部まるっと無視して強制的に非性愛者に性愛を「わからせてくださる」この薬、マジのマジで(誤った)少子化解消のための方策としか私には読めないのだが…それ以外にこの薬の使いどころがありますか…

 「たかが漫画の話だし、少子化解消で予算が下りたなんて書かれてないし、考えすぎだろ」と言う人、うんその通りだよね。でもね知ってますか、「L(レズビアン)とG(ゲイ)が足立区に完全に広がってしまったら、子どもが1人も生まれない」発言があったのって2020年だぜ。「非性愛者なんぞ認めたら子どもが1人も生まれない」と考える人が出てこないって言えます?私は言えないぜ。この現実も、「非性愛者を『恋愛脳』にする薬」を何百憶何千億かけて作る漫画内現実も、人は性愛者であるべき性行為/恋愛を行うべき行わないやつは「治療」してやるを地で行くディストピアですぜ…つうか少子化解消したいなら女性の産後復帰がしやすい制度とか子育てしやすい環境作りとかやること他にあるだろうが。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

おわりに

 

今回のこの文章は最初に説明した通り、自分の性的指向を踏んづけまくる漫画をうっかり読んでしまった人間が、ほぼ自分のために、セラピーとして書いたものだ。どんな形であれ誰かのためになるかはわからないが、マイノリティをマイノリティとして尊重することをせず、自らの欲求のためにマイノリティがマイノリティであること自体を許さないことのグロさを感じてもらえたらこちらとしてはうれしい。書きたいことは全部書けたのでたいへんすっきりしました。

 

※4月20日追記

ここまで読んでくれた方にお願いがあります。この次の投稿「クソはクソなのでクソだと叫ぼう―「激怒ブログ」を読んだ人にお願いしたいこと」も読んでいただけないでしょうか。お願い!

herve-guibertlovesmovies.hatenablog.com

 

義実家のしきたりなどクソくらえ!「レディ・オア・ノット」

 

※ネタバレがあります。

 

 

予告編

 

www.youtube.com

日本語字幕付きの予告編はこれしか見つからず。字幕なしの長いバージョンはネタバレしすぎじゃなかろうかと思うのでこちらを貼っておきます。

 

あらすじ

 

生死を賭けたサバイバルゲームで富を築く大富豪一族に嫁いだ花嫁が、一族の伝統儀式と称する命懸けの「かくれんぼ」に巻き込まれる姿を描いたリベンジアクション。大富豪一族に嫁ぐことになったグレースは、結婚式の日の夜、一族の一員として認めてもらうための伝統儀式に参加することになる。その儀式とは、一族総出で行われる「かくれんぼ」だった。夜明けまで逃げ続けるように告げられたグレースは戸惑うが、やがて一族全員が武器を手に自分の命を狙っていることを知る。訳も分からず絶体絶命の状況の中、グレースも戦うことを決意するが……。監督はホラー映画を得意とする製作集団「ラジオ・サイレンス」の一員でもあるマット・ベティネッリ=オルピンとタイラー・ジレット。主人公グレース役は「スリー・ビルボード」のサマラ・ウィービング。(映画.comより引用)

 

 

 

感想―ホラー映画としての「レディ・オア・ノット」

 最後まで楽しく観られた一本。義実家を訪れた女性が大勢を敵に回して奮闘する、と聞くと「サプライズ」(アダム・ウィンガード監督)を思い出してしまう。「サプライズ」のエリンはある事情からサバイバルスキルに長け、「なんでそこでそうしちゃうのー!!」というホラー映画あるあるのもどかしさを覚えさせない、ハイレベルにできる主人公であり、彼女が戦わねばならないヴィランたちもまた、プロフェッショナル感のあるできる奴らであった。しかし「レディ・オア・ノット」では、主人公グレースも、彼女が敵に回す義実家の人たちも、そこまでハイレベルな殺人スキルに長けてはおらず、「うっかり」で死亡する人がほとんどであり、その死にざまがユーモアになって(!)いて、えげつないホラーが苦手な人でも見られるくらい、ホラーレベルとしては低めに仕上がっている(途中でイタタタタなシーンはあるけれども)。折れた柵や麻酔銃を回収しなかったりと、つめのあまいところもあるのだが、ウェディングドレスの裾を破り、走ったり落ちたり格闘したり、サマラ・ウィーヴィングは鬼気迫る姿を見せてくれた。

 

感想―泥沼離婚劇としての「レディ・オア・ノット」

 さて、ここからが本題である。本作は、夫の家のしきたりのことをまるで知らずに結婚した妻が、そこでのあまりに前時代的、非倫理的な仕打ちに耐えかねて離婚するまでを描いた物語だ(いろいろ省いてはいるが、この要約は間違ってはいないと思う)。グレースの夫アレックスははじめのうちは少なくとも同情すべき点のある味方として描かれるが、実は最初から難ありまくりの夫である。自分と結婚することによってグレースが命の危険に晒される可能性があると知っていたのであれば、最初からそれを明かした上で結婚するか否かの判断は彼女に任せる/そもそも結婚を選ばず恋人のままでいるという選択肢はあったにもかかわらず、前者の選択肢は「グレースを失いたくないから」後者の選択肢は「グレースが結婚を望んだから」と、アレックスはどちらも選ばない。グレースが何も知らない状態で儀式に臨み、限りなくアンフェアな状況の中で生き残りを賭けたゲームに参加することになったのは、まさにアレックスが「どちらも選ばなかった」からだ。母親との会話で、「グレースが死んだらあなたを殺す」と勇ましいことを言っておきながら、殺されそうになったグレースが反撃して母親を殺すと、一転して家族と一緒になってグレースを殺そうとするのもそう。アレックスは家のしきたりに従いたくないと口では言いながら、結局は自分の家の「色」にどっぷり染まってしまってそこから抜け出せない男なのだ。ここまで極端な話でなくとも、似たような話はそこらへんに転がっている。なんと多くの人が、結婚した後になって、義家族に酷い仕打ちを受けたのにもかかわらず自分の夫/妻が自分ではなく義家族の味方をして傷ついたという話をしているだろうか。この物語が痛快なのは、「昔からうちではこうだから」という、理解しがたいルールをこちらに強制しようとする(そのためにかつて愛する人を失ったエレーヌまでが今度はそのルールを新入りに強制しようとするあたり業が深い)義家族が、結局はグレースという新たに家族の一員になるはずだった人間による反抗のせいで破滅する姿を描いているからだ。ラスト近くの展開については、アレックスは最後までグレースの味方をしていればああはならなかったのではないかと思う。血によって結ばれた家族をとるか自分で選び取った妻をとるか、態度をはっきりさせないからああなるのです。

 

ちなみに

主演のサマラ・ウィーヴィング、おじはヒューゴ・ウィーヴィングだそうです。

たとえ馬に乗れないライダーだとしても。 「ザ・ライダー」

※ネタバレがあります。

 展開にびっくりしたりするような映画ではないのですが、個人的にはあまり前情報を入れない方がいいような気がします。

 

あらすじ

命を危険にさらすとわかりながらも、捨てきれぬロデオへの想い。事故で大怪我を負ったカウボーイは、後遺症による恐怖と葛藤しながら、新たに生きる意味を探す。(Netflix公式サイトより引用)

 

感想

いいものを観た。まず映像がとにかく美しい。どこまでもどこまでも果てなく続いているかのような荒野を、物言わぬ馬という生きものの激しさとうつくしさを、驚嘆を禁じ得ないよな鮮やかさで映し出すジョシュア・ジェームズ・リチャーズのカメラ。リチャーズは本作の監督クロエ・ジャオの新作「ノマドランド」でも撮影を担当し、アカデミー賞にもノミネートされているのだが、それも納得である。主人公のブレイディが生まれ育ち、その一部であるような荒野と、彼がどうにか馴染もうとする外の世界の象徴としてのスーパーの、人工的な照明が照らし出す「つくりもの」感の対比よ。大量生産の商品を棚に並べていくブレイディは、まるでエリザベスカラーをつけられたけもののように痛々しく滑稽だ。ここはどうしたって彼の世界ではない。

しかしこの映画が素晴らしいのは、自分の属する世界を失ってしまった青年が、絶望や自暴自棄を、その果ての自死や自らの安全を顧みない危険な行為を、選ばないことだ。ブレイディはアポロを殺せない。たとえその引き金が、結局は彼の父によって引かれるのだとしても。なぜならアポロはブレイディ自身だから。傷つき、本来あるべき姿でいられず、やるべきことをやれなくなったブレイディそのものだから。ブレイディは自分を殺すことができないのだ。

とはいえその後もブレイディは揺らぐ。やはり自分のいる場所はロデオ会場ではないか。馬の上ではないか。カウボーイは馬に乗るべきだ。馬に乗れなくなったらその時は...その時は? 銃をこめかみにあてるのか? 危険だとわかっていながら、怪我をした体でそれでも馬に乗るのか?

ブレイディの選択はそのどちらでもない。馬の背に揺られ、風を感じ、荒馬にまたがることが、もはや彼にはできない。けれどそれでも彼は、生きていく。生きていていいのだ。父親と抱擁したあの時に、ブレイディはもう馬に乗ることのできない自分を、やっと許すことができたのだ。

 

ちなみに

 

・クレジットを観てびっくりしたのだが、この映画は主演のブレイディ・ジャンドローの実体験を基にしている。彼だけではなく、妹役は実際の妹が、父親役は実際の父親が演じている。レインも実際に同じ境遇にあるブレイディの親友だそうだ。

このあたりはこちらの記事に詳しい。

 

www.rollingstone.com

 

・クロエ・ジャオ監督の新作「ノマドランド」でも同様の手法が取られているらしい。

 

・そしてクロエ・ジャオ監督の次回作と言えばマーベルの「エターナルズ」である。機密条項があったために、オファーを受けるまで脚本を読ませてもらえなかったサルマ・ハエックは、クロエ・ジャオ監督が大好きだからとオファーを受けたそうです。いったいどんな映画になるんだ。

 

variety.com

粉々になったわたしのかけらたち 「マイ・リトル・ゴート」

※ネタバレがあります。

※作品には性暴力の描写があります。

 

 

あらすじ

グリム童話に着想を得たダークメルヘン〜

オオカミに食べられてしまった子ヤギ達を胃袋から助け出すお母さんヤギ。しかし、長男のトルクだけが見つからない!

※本作品はマチュアコンテンツです。虐待についての表現を含む暴力描写がございます。ご了承の上でご視聴ください。(Brillia SHORTSHORTS THEATERのStoryより引用)

 

 

 

 

 

 

※もう一度ブログの執筆者からワンクッション。

 この短編映画には子どもに対する性暴力の描写があり、以下の感想もその内容にふれています。読まれる方によってはフラッシュバックなどを起こされるかもしれません。

 

 

 

 

感想

 つ、つらい。というのが鑑賞後の第一声だ。かわいらしいデザインのパペットたちが登場するアニメーションで描かれるのは、子どもに対するあまりにも残酷な虐待であるからだ。たった10分でどん底の気持ちに落とされ、そしていろいろなことを考えざるを得なくなる映画だ。

 

 私が気になったところはいくつかある。

※この「気になった」というのは「粗がある」とかそういう意味ではなく、「あれ?どゆこと?」と思った、と言う意味です。

 

1.腹を裂かれた狼はどうなったの?

 参考までに、この映画が基にしていると思われる有名なグリム童話「おおかみと七ひきの子ヤギ」の物語はこちら。

 

ja.wikipedia.org

 そしてこの映画、しょっぱなから狼が腹を裂かれて、中にいた、食われてしまった子ヤギたちは助け出されるのだ。しかしその後狼は、子ヤギたちが留守番をしている家にふたたびやって来る。

 ここで、「ん?」と思ったのは、「最初に腹を裂かれた後、狼はどうなったのか?」と思ったからだった。元ネタの童話では、狼は子ヤギのかわりに石を詰め込まれて腹を縫い直され、水に落ちて死ぬ。死んでしまえば当然ながら、もう同じことはできない。

冷静に考えれば、上で「ふたたび」と書いたが、「最初に腹を裂かれた、子ヤギを食った狼」と、劇中で人間の子を追いかけてやって来た「狼」が同じ狼であるとは、明言はされていないのだ。そもそも母ヤギは、人間の子を、完全に消化されてしまった自分の子ヤギと勘違いしているように描かれているので、最初の狼と二番目の狼が別の個体だというのは当然と言えば当然である。しかし...

 

2.子ヤギたちは実在するのか

 狼がやって来て身を隠そうとする時、子ヤギたちは一気にリアリティを失う。どう考えてもサイズの小さすぎる瓶に入ってしまったり、絵になったり。これはアニメ的表現なのか?かれらが体を持った存在ではないということを示しているのではないか?

 

3.母ヤギが狼を撃退するのに使った武器

 それは、このおとぎ話めいた物語において、母ヤギ(人間ですらない)が持っているにしては、あまりにも異質な武器ではないか。しかし真っ先に思い浮かぶその用途はなんだろうか。それは「防犯」ではないか。

 

4.最後に聞こえる音

 これもまた、この物語においてあまりにも異質な音であると思う。森の中に聞こえるこの音から連想したのは「行方不明者を探す捜索隊の存在」だった。

 

 これらの要素を考えあわせるとどういう物語が見えてくるだろうか。

 虐待に遭っている子どもがいる。それは作中にも描かれている通り、本当に恐ろしい、おぞましい仕打ちであり、子どもは深い深い傷を負う。その子は自分の一番深い傷を否定したい。なかったことにしたい。あの深く傷ついた子は私ではない。あの子は狼に食べられて死んでしまった。

 子どもは子ヤギたちを作り出す。自分とはちがう存在を。酷い目に遭ったのは子ヤギたちだ。自分ではない。だって自分は人間で彼らはヤギだから。

でも母ヤギは「子ヤギとして」自分を連れてきた。彼女は見たくない現実を見せようとする。自分の姿を見たくなくて裏返していた鏡は、逃げようとしたがためにひっくり返って傷ついた自分の姿を写し出す。変わり果てた自分の姿を見て悲鳴を上げる姉ヤギもまた、自分の分身だ。それぞれに傷を負いながら、襲われている自分を助けようと団結する子ヤギたちも。この襲われている自分を子ヤギたちが助けようとする場面は、実際に「今」起こっていることではなく、かつてあった被害を直視し、その体験によって植え付けられた恐怖との戦いを表したものではないだろうか。そして傷だらけの自分のかけらをかき集め、自分を襲ってくる相手を倒そうとする戦いに終止符を打ったのは、「おまえは深い傷を負った子ヤギである」という現実を突きつけた母ヤギだった。「傷を負っている」ということを受け入れなければ、その傷を癒すことはできないのだから。

戦いの後、母ヤギはまたしても外出する。鍵がいくつも取り付けられて、家の中は安全だ。狼がちゃんと童話どおりの結末を迎えたらしいことも示される。しかし、鍵が取り付けられたとしても母ヤギは外に出て行って子どもたちを置いていくのだ。ここには二つの意味があるのではないだろうか。自分のためには自分で戦うしかない、という意味。そして、たとえ今でなくともいずれはもっと現実と向き合わなければならないけれど、今は安全な場所にいて休んでもいいのだという意味。ラストに流れる、恐らくはいなくなった人間の子どもを探している人々の存在を暗示する音は、現実世界にはあなたを気にかけて助けようとする人がいるのだというメッセージではないだろうか。

いろいろな読み方のできる作品だと思うのだが、これが私の解釈である

 

 

ちなみに

・こちらがオフィシャルサイト。現在本作を見る方法はないようだが、上映/配信予定などがあればこちらにアップされるのではないかと思う。

mylittlegoat.tumblr.com

・見里朝希監督の作品「PUI PUI モルカー」公式サイトはこちら。かわいい。amazon primeなどの各種配信サービスなどで観られます。

molcar-anime.com