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悪い子になれば空も飛べる。「ウィッチ」

※ネタバレがあります。

 

 

予告編

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あらすじ

 

「魔女」をテーマに、赤子をさらわれた家族が次第に狂気の淵へと転落していく姿を描き、第31回サンダンス映画祭で監督賞に輝いたファンタジーホラー。1630年、ニューイングランド。ウィリアムとキャサリンの夫婦は、敬けんなキリスト教生活を送るために5人の子どもたちと森の近くにある荒地へとやって来た。しかし、赤ん坊のサムが何者かに連れ去られ、行方不明となってしまう。家族が悲しみに沈む中、父ウィリアムは、娘のトマシンが魔女ではないかとの疑いを抱き、疑心暗鬼となった家族は、狂気の淵へと転がり落ちていく。第70回英国アカデミー賞で新人賞にあたるライジングスター賞にノミネートされ、M・ナイト・シャマランの「スプリット」でもヒロインを務めたアニヤ・テイラー=ジョイが、家族から魔女と疑われるトマシン役を演じた。監督はホラー映画の古典的名作「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922)のリメイク版監督に抜てきされ、本作が初メガホンとなるロバート・エガース。(映画.comより引用)

 

 

感想

 断言しよう。これはフェミニズム映画である。

 いや魔女を悪役にすえたホラー映画としてもとてもクオリティが高いのですよ。なんというか人間の声がいやーな感じに緊張を盛り上げる宗教音楽っぽい音楽の使い方とか、魔女と赤ん坊とか、ヤギ小屋の魔女とか、見てはいけないものを見てしまった感がかきたてられるやり方で、すごく生々しく、魔女という「人間の姿をしているが明らかに人間ではない者」を描いている。たとえば「サスペリア(2018年版)」における魔女が人ならざる力を持ち恐ろしい行為に及びながらも、人の言葉が通じ互いに対して仲間意識を持つなど、言ってみれば人間のあいだでも通じる文化のようなものを有していたのに対し、本作の魔女はもっと野性的だ。なぜそんな恐ろしいことを行うのか、なぜ裸で宙に浮くのか、人間の「なぜ」が通じない、きっとまともに言葉を交わすこともできない、はっきりと人間のルールの外に抜け出た存在。それが本作の魔女である。そういう存在は、怖い。この映画はビジュアル的にも魔女をとても恐ろしくとらえている。

 さて本題に入ろう。なぜこれがフェミニズム映画なのか?

 主人公トマシンはくり返し家族から冷たい仕打ちを受ける。がしかし、彼女が一体何をしただろうか。サムが消えたのも、ケイレブが消えたのも、銀コップが消えたのも、彼女の責任ではない。にもかかわらず母親は彼女を疑い、辛く当たる。父は銀コップを自分で売ったにもかかわらず、母親の仕打ちを黙認する。これは子どもを虐待する親と自分に火の粉がかかるのを恐れてそれを許してしまう配偶者の関係そのままではないか。弟を、父を誘惑したというのも完全な言いがかりである(ケイレブが彼女の身体を見つめる場面はあるが、彼は明らかにそのことを後ろめたく思っており、トマシンはそのことに気づいていないようで、二人の仲は良好である。父に関しては、そもそもトマシンを性的に見ているという描写を見つけることができなかった)。お前が誘惑したんだろう――これはしばしば性犯罪や、性的虐待の被害者が向けられてきた言葉だ。

 何もしていないにもかかわらず疑われ、魔女だと言われ、殺されそうになる。可愛がっていた赤ん坊の弟と一番年の近い弟はもういない。母にも父にも疑われ、幼い双子の弟妹は敵意を向けてくる。そんな孤立無援のトマシンがこの家庭を抜け出すにはどうすればいいのか?

 本当に魔女になればいいのだ。

 トマシンは契約のシーンで署名をしろと言われ、字を知らないと答える。それに対する答えは「私が手を貸してやろう」。悪魔は文字を教えてくれる。知識を授けてくれる。人間のルールから外れても、悪い子になればほら、仲間が森の中で待っていて、空だって飛べる。

 Good girls go to heaven, bad girls go everywhere(いい女の子は天国に行く、悪い女の子はどこへでも行く)という言葉がある。私にはこの結末は、まさにこの通りに見えた。神を信じ心が清いまま何も罪を犯さずに天国に行くより、強制された掟に反して自由になる、これはハッピーエンドなのだ。

 

ちなみに

・原題は"The VVitch"。Wの文字を使っていないのは、この時代、Wの文字が一般的に用いられていなかったから。

 

スティーヴン・キング御大が「『ウィッチ』は私を死ぬほど怖がらせた」とツイートしたことでも有名。