映画を観る準備はできている。

映画についてのいろいろな話。

おまえはあくまで人間だ「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」

※ネタバレがあります。

 

 

予告編

意外と公式っぽい予告が見つからなかったので貼りません。

 

あらすじ

士郎正宗のSFコミック「攻殻機動隊」を押井守監督がアニメーション映画化。西暦2029年、高度に発達したネットワーク社会において多発するコンピューター犯罪、サイバーテロなどに対抗するため結成された非公認の超法規特殊部隊「公安9課」(通称「攻殻機動隊」)の活躍を描く。ある日、某国情報筋から、国際手配中の凄腕ハッカー・通称「人形使い」が日本に現れるとの情報が9課に寄せられる。隊長の草薙素子と9課の面々は人形使いの痕跡を追うが……。全米ビルボード誌のビデオチャートで週間1位を獲得するなど海外でも人気が高く、押井守の名を一躍世界に広めた代表作。ウォシャウスキー兄弟の「マトリックス」(1999)など、後のハリウッドSF大作へも影響を与えたとされる。(映画.comより引用)

 

感想

 筆者はマトリックス世代である。そしてアニメには詳しくなく、この超有名作を見るのも今回が初めてだ。そういう人間が観たため「あそこもここも『マトリックス』やん」と思ってしまった。当たり前だが、公開年は本作が「マトリックス」に先行しており、影響を受けたのは「マトリックス」の方である。「マトリックス」公開時にはさんざん本作の影響について語られていたが、本作を観ていかに「マトリックス」が本作をリスペクトしているかがやっと(……)理解できた次第だ。終盤のバトルシーンで柱が銃弾で削られていくところとか、黒い画面に緑色のコードとか、まんま「マトリックス」に引用されていたものね。ウォシャウスキー姉妹の本作への愛情がありありと伝わってくる映画だったのだな、「マトリックス」は。

 この映画で興味深いと思ったのは女性の描かれ方である。本作に登場する女性は極めて少ない。オペレーターの女性が数人、人形遣いが乗り移る義体、そして主人公である草薙素子。それぐらいだ。わずか数分の出番しかないオペレーターの女性たちは極めて似通った顔をしており個性というものが感じられず、それこそ機械のように指示に従っているだけだ(画面を操作する手が機械のものであるという描写もある)。人形遣いが乗り移る義体は女性の姿をしているがそこに乗り移った人形遣いは男性の声でしゃべるためあくまでも「容れもの」であるという感が強い。そして草薙素子だが、彼女は光学迷彩と呼ばれる技術で透明になる際に衣服を脱ぐ。その裸体は義体であるはずだが完全に人間の女性の形をしている。私は序盤であらわにされるこの身体を見て思った。これは「生きている」体ではない、機械の、作り物の身体である。それなのになぜこんなにもはっきりと性別があるのか? 機械の身体に性別など不要ではないのか? 

しかし、私はすぐに自分の間違いに気づいた。この身体に性別があるのは、それが「草薙素子」の身体であるからだ。本作に登場する前述の女性たちが機械そのもののように、代替可能な作り物のように描かれているのとは対照的に、草薙素子は、彼女だけは、義体を用い自らをサイボーグと称するにもかかわらず「人間」なのである。だから彼女の性別のある身体は、女性である草薙素子という人間の身体として正しい。

そして彼女が――「じぶん」というものの存在を自ら疑っているにもかかわらず――人間であるのはなぜかと言うと、バトーがいるからなのだ。バトーは、草薙素子を徹底して「人間」の「女性」として扱う。草薙自身が裸体を晒すことに羞恥を示すことは一度もないが、バトーは一貫してそのむきだしにされたからだから目を逸らす。博物館のシーンで、人形遣い義体はむきだしにされているのにその隣りに横たわる草薙の義体には上着がかけられている描写にそれは顕著だ。バトーにとって人形遣い義体は物体であり、草薙の義体は人間の女性の身体なのである。

特に終盤では人間をはるかに超えた存在と化す草薙を人間たらしめるバトーのこの感情を、安易に恋愛感情として描いていないところもいい。筆者はどんなジャンルの物語にもやたら異性愛が忍び込むのに食傷気味なのだが、この二人の関係は異性愛にあてはまらないものとして映った。脳を除いてすべてが作り物であり代替可能であろうと、おまえはそれでも人間だと言い続けること、それは愛には違いないが、きっとこの二人は恋愛で結ばれることを望まない。

 

ちなみに

・2017年、ハリウッドで同じ原作を基に「ゴースト・イン・ザ・シェル」が作られた。主人公を白人女性であるスカーレット・ヨハンソンが演じたことがホワイトウォッシングであるとして批判を呼んだ。

これについてはぜひこの動画を見てほしい。

www.youtube.com

「自分のように見える」人物が映画や小説で描かれることは、とても大事なのです。