映画を観る準備はできている。

映画についてのいろいろな話。

ネタにするには早すぎる、その描き方は古すぎる

 

私はこの漫画に注釈をつけたい

 

 私事ではあるがしばらくTwitterを休んでいた。心身が疲れていたからだ。しかしよりによって筆者がTwitterを休もうとしていたまさにその時にちょっと話題になった漫画がある。少年ジャンププラス掲載の「わたしのアスチルベ」だ。

 

わたしのアスチルベ - あむぱか | 少年ジャンプ+

 

 この漫画はアセクシュアルを題材にしている。そして筆者にはかつてあまりにも酷いアセクシュアル漫画に対する怒りを7000字以上に渡って吐き出した前科がある。これ↓ね。

 

herve-guibertlovesmovies.hatenablog.com

 さて、今回「わたしのアスチルベ」を読んで、私は上の記事を書いた時のように激怒はしなかった。しかし「ううむ」とうなった。アセクシュアルについて何も知らない人が注釈なしで「わたしの~」を読んでしまったら、望ましくないメッセージが伝わってしまわないだろうか…

 そこでこの文章を書くことにした。「わたしのアスチルベ」を読む時の注釈として。

 

ネタにするには早すぎる① 「いい相手理論」は有効なのか

 

 「わたしのアスチルベ」に登場するふたりの登場人物について説明しよう。

 まずは主人公のあおい。彼女は昔から「恋愛が苦手」だが、「恋人が居ないのはおかしい」「普通は恋人がいるもの」という周りからの圧力に従って、男性受けする格好で出会いを求めて友人とバーに出かけたりしていたが、奏と出会って「他人に恋愛感情がわかない」=「アロマンティック」、「他人に性的欲求がわかない」=「アセクシュアル」という言葉を知り、自分もそうであると思うようになる。

 そしてもう一人の主人公とも言える奏。バーで出会ったあおいに「アロマンティック」「アセクシュアル」という言葉を教え、自身もそうであると語る。あおいと親しくなっていく。

 

 話が進むに従って、自身を奏と同じくアロマンティック/アセクシュアルであると思っていたあおいは、同僚の男性に恋心を抱くようになる。そして、中学生の頃、好きだった男子が自分の悪口を言っているのを聞いてしまい、それ以来恋をすることに恐怖心を抱いていたために恋愛ができなかったのだと悟る。

 

 この部分を読んで、筆者は「誤解を生みそうであるな…」と思った。

アセクシュアルの人々が言われがちなことの一つに、「まだ出会いがないだけなんじゃないの?」がある。

 そう…「アロマンティック/アセクシュアルとか言ってても、いい相手に出会えば恋愛も性行為もするでしょ」と言われるのである!!

 筆者は一度たりとも「またまた~。人に性的欲求が湧くとか言っちゃって~。ほんとはそんなことないでしょ。人間みんなアセクシュアルなんだから~」とか言ったことが(思ったことも)ないのでわからないのだが、ロマンティックでセクシュアルな人びとは、なぜ自分以外の人間もみんな当然ロマンティックでセクシュアルであると思いこむのであろうか。「自分アロマンティック/アセクシュアルなんすよー」と言われているにもかかわらず、である。俺にはわからない…ずっとそうだ…

 お願いなのだが、この「いい相手理論」、アロマンティック/アセクシュアルであると自称している人間には言わないでほしい。筆者は「ああまた戯言を聞かされておるな。けっ」くらいで済ませられる程度にはメンタルが鋼だが、そうではない人もいる。

家族から「(アロマンティック/アセクシュアルだと)決めつけないで、もしかしたら良い人に出会うかもしれない」と言われたというケースなど、恋愛や性的な関心を持つことを前提に、”いつかその時がくる”と諭されることもある。これは、当事者に対して「恋愛や性的な関心を持てない自分はおかしい」といったスティグマ(負の烙印)を押し付け、孤独や不安につながってしまう可能性がある。

news.yahoo.co.jp

 

 漫画に話を戻そう。筆者が「誤解を生みそうであるな…」と思ったのは、この部分が「いい相手理論」は正しい、と言っているように思われてしまわないだろうか、と危惧したからだった。「ほらー!やっぱりまだ正しい相手に出会ってなかっただけなんじゃんー!」と思ってしまう人が現れそうではないか、と思ったのである。

しかし。しかし、である。話はややこしいのだが、あおいのように、自分を「アロマンティック/アセクシュアル」だと思い、けれど何かのきっかけで、やっぱり違う、「ロマンティック/セクシュアル」だった、と悟るに至った、という人がいたとしても、それはそれで何も間違っていない。

 英語のサイトになるが、世界最大のアセクシュアルのオンラインコミュニティ、AVEN(the Asexual Visibility and Education Network)から引用しよう。

 

セクシュアリティは他のどのアイデンティティとも同様に――根本的には人々が自分自身を理解するのを助け、そして自分のその部分を他者に伝えるために使うただの言葉だ。もしあなたがアセクシュアルという言葉を自分自身を言い表すのに役に立つと思うなら、あなたはきっと自分はアセクシュアルであるとみなしているのだろう。もし後になってあなたがアセクシュアルではないことを示すような経験をしたとしても、それも同じく構わない。自分のアセクシュアリティ/セクシュアリティに疑問を抱く段階にある人々は私たちのコミュニティに歓迎だ。私たちは喜んで自分自身の経験や視点を共有し、あなたが自分自身についてもっと多くを発見するの手助けをしよう。私たちのメンバーはその多くがもはや自分をアセクシュアルと見なしてはいないが、それでも未だにあらゆるタイプの人々に対してサポートを提供し知恵を共有する活動に参加している。

Asexuality is like any other identity – at its core it’s just a word that people use to help figure themselves out, then communicate that part of themselves to others. If you find the word asexual useful to describe yourself, you may certainly identify as asexual. If you later experience things that indicate you’re not asexual, that’s fine as well. People in a stage of questioning their a/sexuality are welcome in our community, as we are happy to share our own experiences and perspective in helping you discover more about yourself. Many of our members no longer identify as asexual, but still participate to provide support and share wisdom to all types of people.

 

 

asexuality.org

 

 「いや、なんだよ、アセクシュアルだと思ってたけどやっぱり違ったって人もいるんじゃん! それなのに『いい相手理論』は言っちゃだめなの? なんでだよ!」と思う人もいるかもしれない。そういう人には考えてみてほしい。

 「私、青いズボンはきたい!」と言った後、周りから「でも君は女の子だよね」「女の子がズボンなんておかしいよね」「女の子が青好きっておかしいよね」「女の子なら赤いワンピース着たいよね」「着たいよね」「着たいよね」「着たい、よね?」と詰め寄られて「着たい…です…」と言わされるのと、「ちょっと待って…青いズボンはきたいって思ったけど、今日暑いよね…長ズボンちょっとうっとうしいかな…そういやこないだ買った赤い靴とあの赤いワンピース合いそうじゃね? やっぱ赤のワンピースにするわ!」と自分で考えた末に言うのとは違うよね? そういうことです。そしてもちろん「私は青いズボンをはくのである。あなたが何と言おうとも!はくのである!」と言う人がいたっていいのですよ。要は、あなたがいかに「赤いワンピースかわいい!正義!」と思おうとも、それはあなたの勝手なので好きにすればいいのだが、それを人に着せようとするなという話である。自分が着てりゃいいじゃん。

 

 

ネタにするには早すぎる② アセクシュアルに恋愛関係は可能か

 

 さて、もう一人の主人公とも言うべき奏の話をしよう。奏の両親はとても仲が良く、奏は「自分の未来にもこんな幸せがあると思って」いた。しかし恋愛感情も性的欲求も湧かない彼女は、どうにか相手を見つけようとする。彼女はその過程でアロマンティック/アセクシュアルという概念に出会うが、それをすぐには受け入れられない。「もしかしたらまだ特別な人に会えてないだけかもしれない」と思いながら、相手を探し続ける。

 おわかりいただけただろうか...。

 そう、上で述べた「いい相手理論」がここでも顔を出している。それもアロマンティック/アセクシュアルの当事者が自分に言い聞かせるかたちで。

 筆者は自分をアセクシュアルとみなしている。しかし奏のように「相手が欲しい」と思ったことはない。そのため正直言って、彼女の気持ちはわからない。

 しかしまず奏に言いたいのは、「そうか…辛いな…」である。

 奏は「愛しあう相手を見つけることこそが幸せである」という考えにとらわれすぎているように、筆者の目には映る。人の幸せはその一種類ではないんだよ、と言ったところで、彼女の欲している幸せは愛するパートナーのいる幸せなので、そんなもの響きやしないだろう。そして彼女の望む幸せはアロマンティック/アセクシュアルであれば決して得ることができない...。

 …ん? そうなのか? 本当に?

 作中の奏はアロマンティック/アセクシュアルだが、アロマンティックの人間がアセクシュアルとは限らないし、アセクシュアルの人間がアロマンティックとは限らない。というわけでここではまず、「アセクシュアルの人間は恋愛関係を持てるのか?」を見てみよう。

 先ほども引用したAVENより。

 

アセクシュアルの人々はアセクシュアル同士でうまくいく恋愛関係をもつことができますか?

 

できます!アセクシュアルの人々は恋愛感情を持つことができ、いかなる指向のどんな人とも同じようにその感情をめぐる恋愛関係を築くことができます。私たちは数多くはなく、他のどんな指向とも同様に私たちの個性は多様なので、相性のいいアセクシュアルのパートナーを見つけるのに試練はあるかもしれません。しかし、お互いを見つけたアセクシュアルカップルの成功の物語はありますので、確かに可能です。

 

Can asexuals have successful romantic relationships with each other?

 

Yes! Asexual people can have romantic feelings and form romantic relationships around those feelings just like anyone of any orientation can. There may be challenges in finding a compatible asexual partner, as there aren’t many of us and our personalities are as diverse as all orientations. However, there are success stories out there of asexual couples who have found each other, so it’s certainly possible.

 

アセクシュアルの人々はセクシュアルの人々とうまくいく恋愛関係をもつことができますか?

 

できますし、大勢がしています。人は必ずしも性的魅力を感じることなくともお互いに恋愛相手としての魅力を感じることができますし、これは特に性的魅力をまったく感じないアセクシュアルの人々にあてはまります。このことは(アセクシュアル/セクシュアルが)混ざっている関係にはさらなる課題を追加しますが、しかしうまくいく方法を見つけているカップルもいます。うまくいく確率が極めて低いとみなしてセクシュアルとデートしないアセクシュアルもいますが、全員ではありません。

 

Can asexuals have successful romantic relationships with sexuals?

 

They can, and many do. People can feel romantic attraction towards each other without necessarily feeling sexual attraction, and this is especially true for asexual people who don’t feel sexual attraction at all. This presents some additional challenges to mixed relationships, but some couples find ways to make it work. Some asexuals consider success so unlikely that they prefer not to date sexuals, but that’s not the case for everyone.

 

 

 

asexuality.org

 ではアロマンティックの人々はどうかというと、たとえばこんな記事がある。世界最大のカウンセリングのプラットフォーム、betterhelpより。

 

 アロマンティックの人々は他者との愛情の絆を築くことができる。アロマンティックの人は他者と一緒に暮らすことを望むかもしれないし、親しい友人と長期間人生を共にする取り決めをしたがるかもしれない。一人でいること、一人で生きることを望むアロマンティックの人もいるが、すべてではない。

Aromantic people can form bonds of attachment with others. An aromantic person may also desire to live with another person or to have a long-term living arrangement with a close friend. Not all aromantics want to be alone or live alone, though some do.

 

主要なパートナーを持ちたがるアロマンティックの人もいる。このパートナーとは、かれらが感情面でのサポートで一番頼っている人物かもしれないし、一緒に暮らしている人物かもしれない。この関係において恋愛的な愛情は欠けているであろうが、かれらはこのパートナーと性行為を行うかもしれないし、行わないかもしれない。

Some aromantics prefer to have a primary partner. This may be the person they lean on most for emotional support, and it may be the person they live with. They may or may not have sex with this partner, even though romantic affection is likely absent from this relationship.

 

 

 

www.betterhelp.com

 恋愛感情・性的欲求が、パートナーを得て関係を築くのに必要不可欠ではないということがおわかりいただけただろうか。たとえアロマンティック/アセクシュアルであったとしても、それは必ずしも「パートナーなしで、一人で生きていかなければならない」ことを意味しない。

 物語の最後で、奏にはパートナーこそいないが、心を許せる友人がいて、幸せそうである。彼女がそういうふうに生きていると描かれているのは素晴らしいことだ。しかし、私は同時に強調したい。奏が、こんなにも切望しているように、パートナーと共に生きていくこと。その未来もまた、閉ざされているわけではないのだ。

 

俺たちに羽はある(断言)

 

 さて、個人的に本作で一番「ぬぬぬう」と思った部分に話を移そう。

 本作には恋愛ができる人を翼を持った人、できない人を翼を持たない人として描いた部分がある。そして、恋愛をすることは翼を持った人が空を飛ぶこととして描かれる。元々翼を持たない=恋愛をしない人は空を飛ぶことができず足が地に着いたままである。

 う、うん。これ…これね…

 自分で書いた文章ではあるが、以前に酷いアセクシュアル漫画に激怒した時に書いた記事から抜粋しよう。

 

私たちは「性愛者の恋愛/性行為のある豊かな人生」から「恋愛/性行為」をマイナスした不完全な人生を生きているわけではない。私たちの人生は「恋愛/性行為」のない状態で完全なのであり、あるべき姿から何かが欠けているわけではない。

herve-guibertlovesmovies.hatenablog.com

 いや、言いたいことはこれに尽きる。たかだか恋愛をしない、性行為をしないというだけで、なぜ我々は生まれつき欠けたところのある人間扱いされなければならないんでしょうか。マジのマジにわからないのだが、恋愛/性行為をする人々は、恋愛/性行為を抜いたら他に何も残らないクソ貧しい人生を送っていらっしゃるのでありますか。それぐらいの暴言は吐きたくなるぜ。

 嗚呼、俺になんかの権限があったなら。「アセクシュアルはセクシュアルから性的欲求を引いた生き物でーす」という描写を俺は禁止したい。アセクシュアルはセクシュアルの出来損ないではない。世の中には性的欲求が湧く人間もいれば、湧かない人間もいる。ただそれだけのことだ。我々は何も間違ってなどいない。空に羽ばたくこと=幸せであるならば、間違いなく我々は空を飛べる。恋愛/性行為抜きでは幸せになれないなんてことがあろうか。いやない。幸せは人それぞれだ。我々には!羽があるのだ!

 

ぼくがかんがえたさいきょうのアセクシュアル漫画

 

 もう一つ、前回の記事から抜粋しよう。

マイノリティはただでさえ「マイノリティがマイノリティであるがための苦しみを味わう物語」に登場させられがちである。そういった物語はそういった物語でもちろん存在していていいのだが、今、いろいろなマイノリティが求めているのは、「マイノリティが、マイノリティをテーマにしているのではない物語に、フツーに存在する姿」である。

herve-guibertlovesmovies.hatenablog.com

 

 本作「わたしのアスチルベ」はどうかというと、結末には希望があり、マイノリティは苦しみを味わうだけでなく幸せを見出すけれども、これは「マイノリティがマイノリティであるがための苦しみを味わう物語」である。うん、その存在意義はわかる。もちろんそういう物語だってあっていい。しかし、しかしだ。正直言って私は今、この次の物語を見たい。

 私が考えた最強のアセクシュアル漫画。その条件はごくごくシンプルだ。

 1.その人物がアセクシュアルであることが明示される。

 理由はおわかりだろう。だってはっきり言っとかないと「この人はまだいい人に出会ってないだけで当然セクシュアルだよな」って思われるからだ!

 2.その人物のアセクシュアリティは物語の主題とはならない。

 フツーにアセクシュアルの人物がSFとかアクションとかミステリーに出てくるのを見たいんですよ私は。

 3. アセクシュアリティは特にその人物を苦しめてはいない。

 「マイノリティがマイノリティであるがための苦しみを味わう物語」の次に来る物語の話ですからね。アセクシュアリティ=不幸という呪いをかけないでほしい。

 ね?この3つを満たすのはとても簡単なことではありませんか。はっきり言ってどんな漫画でもできる。たとえば殺人事件の謎を解くのに、たとえば巨人の首を削ぐのに、たとえば金塊を探して冒険を繰り広げるのに、キャラクターがアセクシュアルであってはいけない理由などどこにもない。私は「アセクシュアルが、アセクシュアルをテーマにしているのではない物語に、フツーに存在する姿」を見たい。それも、自分自身のためというよりは、「私はこれで本当にいいんだろうか」と自分のアセクシュアリティに悩んでいるような人のために、それを見たい。映画、ドラマ、漫画、小説…数あるフィクションの中で、自分に似た誰かが、フツーに物語に関わって、フツーに生きている姿は、悩める人たちを必ずや勇気づけるはずだから。

 もう一度言うが、アセクシュアルである私たちは何も間違っていない。私たちは幸せになれる。私たちはきっと、大丈夫。これは、これだけは本当だ。