映画を観る準備はできている。

映画についてのいろいろな話。

クソはクソなのでクソだと叫ぼう―「激怒ブログ」を読んだ人にお願いしたいこと

 

わりと真面目にお願いしたいこと

 

「例のアセクシュアル漫画を読んで激怒したアセクシュアル当事者が、7000字かけてそのグロさを叫ぶ文。」(タイトル長えなおい。以下「激怒ブログ」ね)という文章を書いた。そしてツイートでその文章へのリンクを貼った。現在そのツイート(以下「激怒ツイート」)は2259RT4560いいねされている。その後のツイートでも書いたことだが、私が最後に確認した時、「例のアセクシュアル漫画」が貼られたツイートには1300を超えるいいねがついていた。激怒ツイートはその3倍以上のいいねをもらったことになる。「はっおまえいいね数で競ってんの?いいねいっぱいもらえた方がエライのかよw」とか思う人もいるかもしれないのだが、そういうことではない。私は純粋にうれしいのだ。性加害を軽視し他者のセクシュアリティを尊重しない例の漫画より、それをクソだという文章のほうが「いいね」と思う人が多かったということがうれしい。みなさん拡散してくれてありがとう。読んでくれてありがとう。

...とお礼をしてこの文章を終わりにすることもできるのだが、もうちょっと話を聞いてもらっていいですか。私にはわりと真面目にお願いしたいことがある。

 

漫画は人を殺す

 

 激怒ツイートは割と真剣にびっくりするくらい肯定的に受け入れていただき、「わかるわかる」「それな」「ですよねー」という反応が本当に多かった。しかしTwitter名物クソリプラーがまったく出没しなかったわけではない。本当にわずかなクソリプの中に、「漫画なんだからさ、何が描いてあってもいいじゃんか」(※言い回しは変えています)というものがあった。しかしクソリプラーはなぜクソリプをするのだろうか。クソな考えはクソな自分の頭にだけ留めてはもらえないだろうか。自分のクソをまき散らすことでこの人々は快感を覚えるのだろうか迷惑な性癖だな。ということで私は件のクソリプラーをブロックしたため、ワン・クソリプラー・レスなTwitterライフを満喫している。クソリプラーはブロックしよう。どんどんどんどんブロックしよう。快適なTwitterライフを実現するのだ!

 閑話休題。私がこのクソリプを「クソリプだ」と思ったのは、漫画は人を殺すからです。

 「いやいやいやいくら何でも漫画を読んで死ぬなんてことないでしょ。大げさじゃね?」と思うかもしれない。でもね、どうか考えてみてほしい。ああいう漫画が描かれたのはああいう考え方をする人がいるからである。そしてああいう考え方――好きな相手に薬を盛って相手が望んでいない性行為に及んでしまえ、マイノリティをマジョリティ仕様に「治療」してしまえ――というのは全然珍しいものではない。悲しいことに。ああいう考え方は世の中にあふれている。それを特別に悪い事ではないとして受け入れている人が大勢いる。

 マイノリティや、性犯罪の被害者を絶望させるものの一つに、直接的な加害者ではない「世間一般」の人々が、自分たちに対して行われている非道な行為を「クソだ」とわかってくれないことがある。「漫画が人を殺す」というのは、そういうことだ。性加害やマイノリティへのコンバージョン・セラピーを特に批判せずコメディ調で描く漫画を描くということは、性加害を受けた人やマイノリティを直接殴るということである。そしてその漫画に

「いいね」するということは、「いいねもっとやれ」と言っているのと同じだ。

 想像してほしい。あなたがいじめを受けているとしよう。あなたは殴る蹴るの暴力を受ける。ばい菌だ汚いと言われる。あなたに暴力をふるいあなたに酷い言葉を吐いているのは一人だ。しかし、そういうことをしているのがたとえ一人だったとしても、あなたの敵は一人ではない。なぜならその一人以外の「みんな」が、あなたをいじめる者に向かって「いいぞもっとやれ」「殴る蹴るさいこう」「ばい菌呼びさいこう」と言い応援しているからだ。

 もし「みんな」が、あなたをいじめる者に向かって、「てめえやめろや」「暴力最低」「人をばい菌なんて言うな!」と言ってくれていたら、あなたの覚える絶望感はだいぶ違うものになっていたのではないだろうか。あなたは傷ついたとしても、でも「みんな」という味方がいることに力を得られたのではないだろうか。

 

クソをクソだと認識できない悲しさについて

 

 

「人を好きになる」のと「人を好きにしたい」のはまったくちがうんだぜ…

 

あのね...あなたが男であれ女であれどちらでもない者であれ、そして相手が男であれ女であれどちらでもない者であれ、相手が望んでいないのに性的な行為を行ったらそれは性加害ですよ…そして相手を傷つけてもそういう事をしたいなら、あなたは相手を好きなんじゃなく好きにしたいだけなのよ…

 

 いきなりどうした?と思われるかもしれないが、上記は私が激怒ツイート後に行ったツイートである。なんかキャラ違うんじゃね?と思われたかもしれないが、私は普段はどちらかといえばのんびりした人間であり、本当は上のようにやたら三点リーダーを使ってまったり話す人なのである。激怒ブログを書いた時はめっちゃ怒っていたので人格が変わっただけなのです。

まあそれはさておき、正直、私は上のツイートで特別目新しいことを言っているわけではない。要するに同意のない性行為はクソだ、相手が望んでないのにそんなことする奴はクソだ、そう言いたかっただけだ。

 しかし、クソをクソだと認識するという、それだけのことが時に難しいことがある。たとえば、恋人関係にある相手から望まない性行為をされたら?それは性加害であり、それをやった相手はクソであり、あなたは当然傷つく権利があるのだと認識することは難しくなる。「恋人とは、性行為をする相手」だからだ。これ↓は恋人から性加害に遭い、時間が経ってからやっと「あれは性加害だった」と気づくことができた人の告白だ。ぜひ読んでほしい。

 

 

www.huffingtonpost.jp

 

 この記事にあるのだが、

 

レイプや性暴力を「恋愛の要素」として描くことで、多くの被害者が「性暴力にあった」ことに気づくことが難しくなると思う。

 

 この部分を、私はうなずきながら読んだ。(アニメや漫画で)「性暴力を行う描写が、なぜか「胸キュン」として消費される(上の記事から引用)」ため、それが性暴力であり絶対にやってはいけないクソな行為だと認識しづらくなる――これは真実だと思うし、例のアセクシュアル漫画を放っておくことのできなかった理由の一つでもある。そういう表現は現実にあふれている。ちなみに記事内で言及されている「主人公が性暴力を受け加害者がヒーローでふたりは恋愛する」という漫画、私には何のことかわかるような気がする(試し読みでこの部分を読みあまりにも気持ち悪かったので読むのをやめた)のだが、これなんか映画になりアニメになり何十巻も単行本出てたもんな!

 そして私が悲しいと思ったのは、この記事を書かれた方のように、「自分は性暴力に遭ったのだ」と認識する事すらできない/できなかった人がきっと大勢いるということなのだ。性教育が足りず性暴力を是とする表現があふれ、要するに「誰もそれが性暴力だと教えてくれる人がいなかった」ばかりに。

 そもそも相手の望まない性行為をするのは、相手との間柄や、自分及び相手の性別にかかわらず絶対にやってはならない――その認識があれば、例のアセクシュアル漫画が性加害を無批判に描くこともなかったはずなのだ。たとえアセクシュアルのなんたるかをよく知らずとも、あんなにグロテスクな行為をコメディとして描くのがあかんことだとわかったはずだ。「相手の望まない性行為をするのはクソ。相手がどんな間柄だろうと、相手がどんな性別だろうとクソ」。どうか今日は最悪これだけは覚えて帰ってほしい。

 

クソをクソだと叫ぼう

 

 我々は箱の中に住んでいる。

 今度は何言い出したん?と思うかもしれない。でも本当だ。

 我々は箱の中に住んでいる。「アセクシュアルという言葉が存在しない箱」「デートレイプという言葉が存在しない箱」「コンバージョン・セラピーという言葉が存在しない箱」...その箱を開けて外に出、「アセクシュアルという言葉が存在する箱」に入ったら、「そういう人がこの世にいるんだ」とわかる。「デートレイプという言葉が存在する箱」に入ったら、「恋人から同意なく性行為をされるのは性暴力なんだ」とわかる。「コンバージョン・セラピーという言葉が存在する箱」に入ったら、「コンバージョン・セラピーで傷つく人がいるんだ」とわかる。

 「クソをクソだと認識できない悲しさについて」で紹介した記事は、きっと少なくない人を「デートレイプという言葉が存在する箱」にいざなったことだろう。で、こんなことを言うのはおこがましいかもしれないのだが、「激怒ブログ」によって「コンバージョン・セラピーはクソ」「薬を人に盛るのはクソ」「酒を飲みたくない人に酒を勧めるのはクソ」な箱にいざなわれた人がもしいるならば、私にはお願いしたいことがある。そう、これが「わりと真面目にお願いしたいこと」である。

 この先クソなものを見たら、「クソだ」って言ってくれませんか。

 差別問題が話題になった時、必ずと言っていいほど言われるのが、「差別をなくすなんて不可能だ」ということだ。

 それは本当かもしれない。自分ではっきりと楽しく差別を行っている人もいれば、知らず知らずのうちに差別的な態度を身に着け、無自覚にマイノリティを踏んづけてしまう人もいる。それはもうたくさんいる。そうした人すべてに考えを変えさせることなんてはたしてできるだろうか?

 だが、たとえそれが無理だとしても、私たちには少なくとも、差別を目にした時に「怒る」ことはできる。

 あなたはその差別についてよく知らず、「こんなのはいけない」と思いながらも、直接反論することは難しい、というようなことがあるかもしれない。でもきっと、どこかでその差別に反論している、あなたより詳しい人はいるはずだ。せめてその人を支持してほしい。「いいね」して。RTして。その人の言葉を広めて。それがきっかけになり、箱を開けて外に出ることができる人もきっといる。いつかどこかで箱を開けたあなたのように。

 そして、そうやってクソはクソだと言うあなたの姿が、誰かの力になることがきっとあるはずだ。