映画を観る準備はできている。

映画についてのいろいろな話。

えええええええー!ラスト二十分の衝撃「キャビン・イン・ザ・ウッズ」

※ネタバレがあります。

 

 

予告編

日本語版が見つからなかったので英語版を貼ろうとしたのだが、見ない方がいいんじゃないかなーと思うシーンが入ってたので貼りません。なるべく何も知らない方が楽しめる映画だと思います。

 

あらすじ

 麻薬に溺れる親友のクリスを助けるため、マイクはクリスが住むキャビンに彼を監禁する。監禁生活が続く中、マイクは奇妙なことに気づく。

 (いつも頼っている映画.comに掲載がなかったので自分で書きました)

 

感想

 この映画は静かにゆっくりと進む。slow burn(じわじわくる)という言葉がよく英語でホラー映画を形容する時に使われるけれども、まさにそれ。舞台はほぼ森の中のキャビンとその周辺、出てくる人物もクリス、マイクの他はヤク中の昔馴染みとかキャビンの持ち主とかでごくごく限られている。幽霊がバーン!死体がごろごろ!というタイプのホラー映画ではない。いや、終盤になるまで、まあなんだか不気味な写真や不気味な人や不気味な映像はあるけれど、そもそもホラー映画なのか? 怖くはないよ? と疑わしくなってくるくらいである。

 しかし、この映画が気に入るにしろ気に入らないにしろ、まず一度は観てほしい。この映画のラスト二十分くらいで提示されるアイデアは、これは…ネタバレがありますと言いながらここには書かないけれど、これまでに見たことがないものだと私は思った。ホラー映画が大好きで、どんでん返しはたいてい最後まで見る前にわかってしまう(本作のアイデアはどんでん返し系ではないけれど)人間なのだが、そう思ったのである。そのアイデアが最初に示される映像を流した時、この映画は立派にホラー映画に変わる。ええええええええマジで? そんなこと、ある??? WTF(汚い言葉を使うんじゃありません)? この最後の二十分、これをぜひ見てほしい。地味ーな映画なんだけど、少なくともこの二十分は試して損はないと思う。

 

ちなみに

・続編「アルカディア」もあり、こちらでは監督コンビ、ジャステイン・ベンソン&アーロン・ムーアヘッドが主演も務めている。本作とつながりがあるとのこと。気になる…

 

『アルカディア』予告 - YouTube

・”The Cabin in the woods”といえば「キャビン」の原題であるが、本作の原題は”Resolution”。「決心」や「解明」の他に「解像度」の意味もある(鑑賞後の人はにやりとするところ)。

 

 

 

悪い子になれば空も飛べる。「ウィッチ」

※ネタバレがあります。

 

 

予告編

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あらすじ

 

「魔女」をテーマに、赤子をさらわれた家族が次第に狂気の淵へと転落していく姿を描き、第31回サンダンス映画祭で監督賞に輝いたファンタジーホラー。1630年、ニューイングランド。ウィリアムとキャサリンの夫婦は、敬けんなキリスト教生活を送るために5人の子どもたちと森の近くにある荒地へとやって来た。しかし、赤ん坊のサムが何者かに連れ去られ、行方不明となってしまう。家族が悲しみに沈む中、父ウィリアムは、娘のトマシンが魔女ではないかとの疑いを抱き、疑心暗鬼となった家族は、狂気の淵へと転がり落ちていく。第70回英国アカデミー賞で新人賞にあたるライジングスター賞にノミネートされ、M・ナイト・シャマランの「スプリット」でもヒロインを務めたアニヤ・テイラー=ジョイが、家族から魔女と疑われるトマシン役を演じた。監督はホラー映画の古典的名作「吸血鬼ノスフェラトゥ」(1922)のリメイク版監督に抜てきされ、本作が初メガホンとなるロバート・エガース。(映画.comより引用)

 

 

感想

 断言しよう。これはフェミニズム映画である。

 いや魔女を悪役にすえたホラー映画としてもとてもクオリティが高いのですよ。なんというか人間の声がいやーな感じに緊張を盛り上げる宗教音楽っぽい音楽の使い方とか、魔女と赤ん坊とか、ヤギ小屋の魔女とか、見てはいけないものを見てしまった感がかきたてられるやり方で、すごく生々しく、魔女という「人間の姿をしているが明らかに人間ではない者」を描いている。たとえば「サスペリア(2018年版)」における魔女が人ならざる力を持ち恐ろしい行為に及びながらも、人の言葉が通じ互いに対して仲間意識を持つなど、言ってみれば人間のあいだでも通じる文化のようなものを有していたのに対し、本作の魔女はもっと野性的だ。なぜそんな恐ろしいことを行うのか、なぜ裸で宙に浮くのか、人間の「なぜ」が通じない、きっとまともに言葉を交わすこともできない、はっきりと人間のルールの外に抜け出た存在。それが本作の魔女である。そういう存在は、怖い。この映画はビジュアル的にも魔女をとても恐ろしくとらえている。

 さて本題に入ろう。なぜこれがフェミニズム映画なのか?

 主人公トマシンはくり返し家族から冷たい仕打ちを受ける。がしかし、彼女が一体何をしただろうか。サムが消えたのも、ケイレブが消えたのも、銀コップが消えたのも、彼女の責任ではない。にもかかわらず母親は彼女を疑い、辛く当たる。父は銀コップを自分で売ったにもかかわらず、母親の仕打ちを黙認する。これは子どもを虐待する親と自分に火の粉がかかるのを恐れてそれを許してしまう配偶者の関係そのままではないか。弟を、父を誘惑したというのも完全な言いがかりである(ケイレブが彼女の身体を見つめる場面はあるが、彼は明らかにそのことを後ろめたく思っており、トマシンはそのことに気づいていないようで、二人の仲は良好である。父に関しては、そもそもトマシンを性的に見ているという描写を見つけることができなかった)。お前が誘惑したんだろう――これはしばしば性犯罪や、性的虐待の被害者が向けられてきた言葉だ。

 何もしていないにもかかわらず疑われ、魔女だと言われ、殺されそうになる。可愛がっていた赤ん坊の弟と一番年の近い弟はもういない。母にも父にも疑われ、幼い双子の弟妹は敵意を向けてくる。そんな孤立無援のトマシンがこの家庭を抜け出すにはどうすればいいのか?

 本当に魔女になればいいのだ。

 トマシンは契約のシーンで署名をしろと言われ、字を知らないと答える。それに対する答えは「私が手を貸してやろう」。悪魔は文字を教えてくれる。知識を授けてくれる。人間のルールから外れても、悪い子になればほら、仲間が森の中で待っていて、空だって飛べる。

 Good girls go to heaven, bad girls go everywhere(いい女の子は天国に行く、悪い女の子はどこへでも行く)という言葉がある。私にはこの結末は、まさにこの通りに見えた。神を信じ心が清いまま何も罪を犯さずに天国に行くより、強制された掟に反して自由になる、これはハッピーエンドなのだ。

 

ちなみに

・原題は"The VVitch"。Wの文字を使っていないのは、この時代、Wの文字が一般的に用いられていなかったから。

 

スティーヴン・キング御大が「『ウィッチ』は私を死ぬほど怖がらせた」とツイートしたことでも有名。

 

 

真に恐ろしいのは罪悪感「箪笥」

 

 

 

※ネタバレがあります。

 

予告編

 

 

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あらすじ

 

韓国の古典怪談『薔花紅蓮伝』をベースに、人里離れた家に住む一家の継母と美しい姉妹の確執、そして“家”自体が放つ禍々しい怪奇現象を描いた恐怖映画。「クワイエット・ファミリー」のキム・ジウン監督が、原作のモチーフのみを踏襲し、結末の予測できないホラー映画として現代的に再構築した。出演は「KT」のキム・ガプス、「H」のヨム・ジョンアほか。(映画.comより引用)

 

感想

 突然だが、ホラー映画ファンのくせに幽霊が出てくるやつが少し苦手だ。だって、敵が殺人鬼とかゾンビなら頑張って返り討ちにできる(かもしれない)が、幽霊はどうすればいいの。映画によっては「○○を××したら成仏するよ!」みたいなルールが設けられていることもあって、それなら多少は安心もできるが、そういうのではなくて、「ただ幽霊が出る」「そしてそのせいで人が死ぬ」というお話が一番怖くないですか。どうすれば逃げられますか。逃げられませんか。いやだあ。

この映画に登場する幽霊は、一番怖い系の幽霊である。いつのまにか画面にひっそりと忍び込んでいる。その姿ははっきりとしない。何をどうしたらいいのかまったくわからない。スミが寝室で幽霊を目撃するシーン、ん?と思ったらそこに、間違えようもなく、「いる」。しかも近づいてくる。そして、そして……人間を襲うのか? 危害を及ぼすのか? と思ったら、そうではないのである(でもこのシーン、文句なく怖い)。

この映画は幽霊が人間に襲いかかったりとりついたりする類の恐怖を描いているのでは、実はない。この映画の中で恐ろしいもの。それは罪悪感である。あの時もしも私がああしていたら。別の行動をとっていたら。そうしたら今頃……その、悔やむに悔やみきれない瞬間を描いて、映画は終わる。ふたりの人生はあの瞬間に終わってしまって、もう元に戻ることはできないのだ。

 

 

 

ちなみに

 

・ベースになった「薔花紅蓮伝」はこちら。映画のストーリーとはだいぶ違う感じですね。

 

ja.wikipedia.org

 

・2009年にはハリウッドリメイク版「ゲスト」も制作された。日本語版予告編が発見できなかったため英語版。

 だいぶ違う感じ……ですね……?

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誰も私を信じてくれない「透明人間」

 

※ネタバレがあります。

 

 

予告編

 

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あらすじ

「ソウ」シリーズの脚本家リー・ワネルが監督・脚本を手がけ、透明人間の恐怖をサスペンスフルに描いたサイコスリラー。富豪の天才科学者エイドリアンに束縛される生活を送るセシリアは、ある夜、計画的に脱出を図る。悲しみに暮れるエイドリアンは手首を切って自殺し、莫大な財産の一部を彼女に残す。しかし、セシリアは彼の死を疑っていた。やがて彼女の周囲で不可解な出来事が次々と起こり、命まで脅かされるように。見えない何かに襲われていることを証明しようとするセシリアだったが……。主演は、テレビドラマ「ハンドメイズ・テイル 侍女の物語」のエリザベス・モス。(映画.comより引用)

 

感想

もしも透明になれたらあなたは一体何をしますか…というのは、「もしも○○になれたら」というお題としてはありふれたものだ。H・G・ウェルズの昔から、人は透明人間の物語を作ってきた。透明になったはいいが元に戻れなくなった科学者がばれないのをいいことに悪いことをしまくる「インビジブル」(2000年、ポール・ヴァーホーヴェン)や、逆に自分を利用して悪事を働こうとする組織から透明人間が逃げ回る「透明人間」(1992年、ジョン・カーペンター)まで、枚挙にいとまがない。透明になるというのはすなわち他者から見とがめられることがないということで、それなら人は悪事を働くよね、という話が多い印象だ。ああ人間への信頼の欠如よ。

別に私は透明人間を扱った作品にものすごくたくさん触れているわけではない。だから特別詳しくない人間が言っていると思って聞いていただきたいのだが、本作の透明人間へのアプローチは、「体が透明=ばれない=悪いことするぜ」というクリシェとは全く違って新鮮に映った。

そもそも、科学の実験が失敗して透明になり、しかも透明になったはいいが元には戻れない、というパターンが多いこのジャンルにおいて、本作でなぜ人間が透明になるかと言えば、科学者が開発した「透明スーツ」を着ているからである。透明になりたければスーツを着ればいいし、元に戻りたければスーツを脱げばいい。また、スーツなので誰が使うのも自由である。この「透明スーツ」という要素が後半の展開に効いてくる。

「透明スーツ」を着た人間は無敵である。見えないのだから、誰かを殴れば殴られた人間は当然そばにいた人間に殴られたものと思う。目に見えない三人目がいるとは考えない。まさにやりたい放題で、やったことのつけは自分が苦しめたい人間に払わせればいい。病院の廊下のシーンに顕著にみられるように、目に見えない人間がそこにいることを知らなければ、銃を持っていてさえ何の役にも立たないのだ。

しかし、ではそういう無敵状態の透明人間による暴力が本作で一番恐ろしい要素なのかと言うと、そうではない。本作で一番恐ろしいこと、それは誰もあなたを信じてくれないことだ。

セシリアは最初から訴えている。エイドリアンがやった、私はやってない、メールを送ったのはエイドリアン、あの子を殴ったのもエイドリアン、エイドリアンは生きている、目に見えないだけ、ここにいるの。この部屋にいるの。

けれど妹も、親友も、親友の子も、もちろん病院も、警察も、誰もそれを信じない。透明状態を最大限に利用して病院の警備員を殺して回る廊下のシーンで、警備員のひとりはどう考えてもセシリアに仲間たちをどうこうできるわけがない状況なのにもかかわらず、セシリアに向かって「伏せろ」と言う。彼が「見えない人間」の存在を信じるのは自分がやられた時だ。

そう、セシリアの言葉には何の価値もないのだ。被害が(たとえ親しい誰かを傷つけるという形であれ)セシリアの被害に留まっていれば、誰も彼女の言葉などには重きを置かない。彼女は嘘をついている、あるいは頭がおかしいことにされる。「見えない人間などいない」という常識の方が、そんなありそうもないことをわめきたてる人間の言葉などよりよほど信用が置ける。

これは、DV被害者の訴えが信じてもらえないという現実によくある状況と重なる。

 

家での言動とは裏腹に、その人物に対する世間の評判は悪くない。医者、弁護士、大学教授などのエリートも多く、穏やかで人あたりのいい、家族思いの常識人という印象を持たれている。そのため被害者が周囲の人に暴力を打ち明けても、「あんないい人が、まさか……」と信じてもらえないのだ。

 

 

toyokeizai.net

 

本作でエミリーが、ジェームズが、セシリアを心底信じるのは自分に直接被害が及んでからだ。セシリアと親しい人間であってもそうなのだ。身内にも友人にも信じてもらえない、世界中からお前は頭がおかしいと言われる、でも自分だけは自分が正しいと知っている。この絶望感を覚えている人がきっと世界には今この時も、いる。

 

ちなみに

 

・オルディス・ホッジが非常にかっこいいですね…

 

・セシリアが面接に行く会社の人(いい人っぽい)に見覚えがあるなーと思ったら、「アップグレード」のフィスクだった。ベネディクト・ハーディ。

 

・エイドリアンの兄、トム役のマイケル・ドーマン、にも見覚えがあるなーと思ったら「デイブレイカー」のイーサン・ホークの弟か!!「デイブレイカー」面白いのでおすすめです!

 

www.youtube.com

リー・ワネルは死体が好き「アップグレード」

 

※ネタバレがあります。

 

予告編

 

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あらすじ

パラノーマル・アクティビティ」のジェイソン・ブラムが製作、「インシディアス」シリーズで脚本や監督を務めたリー・ワネルがメガホンを取ったSFアクション。近未来、妻と平和な日々を送っていたグレイは、突如現れた謎の組織によって妻を殺され、自身も全身麻痺となってしまうが、巨大企業の科学者によって実験的に埋め込まれたAIチップ「STEM」の力によって麻痺を克服し、人間を超越した身体能力を手に入れる。グレイは脳内で会話する相棒的存在である「STEM」と協力し、最愛の妻を殺害した謎の組織への復讐を誓う。主人公グレイ役を「プロメテウス」「スパイダーマン ホームカミング」のローガン・マーシャル=グリーンが演じる。(映画.comより引用)

 

感想

 ジェイソン・ブラムリー・ワネル。ときたら当然ホラー…と思うところだが、SFなのだ、これが。妻を殺され全身麻痺になった男が、AIチップ「ステム」のおかげで体の自由を取り戻す…どころか最強の戦闘スキルまで手に入れてしまい、脳内でしゃべるステムと協力して妻殺しの犯人を追う。

 まず戦闘シーンが面白い。無駄な動きを一切排し、そのために逆に緩慢にさえ見える必要最小限の動きで敵を倒していく、のだが、そこはやはりリー・ワネル!俺は!えげつない死体が!見たい!と言わんばかりに無駄に倒し方がホラーである。検死シーンとか手術シーンもあるのだが、そこも妙に力が入っていて、「ほらほら~内臓だよ~好きでしょ~」と言われているみたいだ。いや、好きだけども。

 銃が手に埋め込まれていて腕から弾を込めるとか、完全自動運転の自動車とか、そういうSF部分も楽しい。

しかし、残念なところも。敵の数が少なく割とあっさりと皆やられてしまう感があるので、これでたとえば「ハードコア」くらいあのステム戦法で殺してくれていたら突き抜けた傑作になったのではないかなあ。

www.youtube.com

(全身を改造された男が全編人を殺しまくるよ!IMDBトリビアによると本編中で211人死んでるらしいよ!)

あと展開のひねりや黒幕の正体も、面白いんだけど、どこかで観た感はあり、予想の域を超えるものではなかった。とはいえ面白いことは面白いし、よくできてるし、見逃すのはもったいない映画だと思うので、気になってた人はぜひ。

 

 

ノンバイナリーのレプリゼンテーション

 

さて、この映画には興味深い会話がある。短いながらも強い印象を残すハッカーのジェイミーの登場シーン。

ハッキングをせかすグレイに、ジェイミーが言う。

 

“Please don’t ask my gender”(私の性別は訊くな)

“You’re the one wasting time, putting me in the binary box”(私を二元論の箱に入れて時間を無駄にしているのはそちらでしょう)

 

※英語の台詞は聞き取ったものなので間違っていたらすみません。()内は拙訳。

 日本語字幕では全然違う台詞になってたよ!

 

これを聞いて私はおっとなった。

「私を二元論の箱に入れる」とはつまり、「二つしかないもののどちらかにあてはめて考える」くらいの意味であろう。これはつまり、その前の「私の性別は訊くな」と合わせて、「『男か女か』という枠に入れるな」ということだと思われる。ジェイミーはノンバイナリーなのだ。

 

ノンバイナリーとは、

性自認が男性と女性の間のグラデーションの上にあるとか、男性でも女性でもない(該当する性別がない)とか、どちらでもあるといった、男性/女性の典型的な二分法(バイナリー)に当てはまらない方全般を指します。

 

www.outjapan.co.jp

 

ジェイミーを演じたKai Bradleyは実際にノンバイナリーの俳優。ジェイミーのこの台詞にはKai Bradleyの意見が反映されているのかもしれない。

 

stmartinsyouth.com.au

 

まだまだノンバイナリーのレプリゼンテーションが少ない中で、ジェンダーをテーマにしたのではないエンタメ映画にさらりと登場するジェイミー。これですよ。これが「マイノリティが、マイノリティをテーマにしているのではない物語に、フツーに存在する姿」なのです…!

私はノンバイナリーの当事者ではないが、このシーンを見て「やったぜ!」となってしまった。こんなふうに、フツーにアクション映画とかSF映画とかにいろいろな人間が出てくるのをもっと見たいものである。

 

ちなみに

 

・映画におけるノンバイナリーのレプリゼンテーション、最近では「ジョン・ウィック:パラベラム」のエイジア・ケイト・ディロンがいる。

 

 

あなたの隣りにいるかもしれない人「クリープ」

※ネタバレがあります。

 

 

予告編

 

日本語の予告編は見つけられなかった。英語の予告編はあったけれど、けっこういいシーンを見せてしまっているため、見ない方がいいんじゃないかと思います。

 

あらすじ

 

カメラマンのアーロンは山中の家で一日撮影するだけで高額の報酬をもらえるという仕事を受ける。依頼主ジョセフは病気のため余命いくばくもなく、まだ生まれていない子どものため自分の映像を残したいのだと言うが…

 

感想

 この映画、低予算なのだろうな、と思う。監督パトリック・ブライスはアーロン役で出演もしていて、脚本も彼とジョセフ役のマーク・デュプラスが担当。というか、IMDB情報だけれども、二人の会話はだいたいアドリブらしい。主な撮影場所はアーロンが招かれるジョセフの「別荘」、別荘のある山、アーロンの家、ダイナー、くらいだし、画面に映るのはこのアーロンとジョセフの二人だけ。見るからに、「わかるよ…お金、ないだろ…?」という感じなのだ。しかし、もちろん、我々映画ファンならようくわかっているように、お金があれば面白い映画が撮れるわけではないし、お金がなくても面白い映画は撮れる。「クリープ」はそれを証明している。

 ジョセフがね。ものすごく怖いんですよ。

 ジョセフは、「13日の金曜日」のジェイソンや「悪魔のいけにえ」のレザーフェイスのように、10メートル先からでも明らかに近寄ってはいけないことがわかる、現実離れした悪役ではない。たとえば「ヘンリー ある連続殺人鬼の記録」のヘンリーのような、「ウルフクリーク 猟奇殺人谷」のミック・テイラーのような、一見普通に見えて、その辺にいそうな人だ。その人が、話しているうちに、少しずつ少しずつ、「実は関わってはいけない類の人」だったことがわかっていく。

 私が一番怖かったのは、夜、山荘のベランダで二人が話すところだ。アーロンが懸命に話をしている途中で、ジョセフがいきなり走り出す、そのタイミング。これは実際見てもらわないことにはわからないだろう。ジョセフはこの後もっと厭ーな、異常な行為を行うのだが、暴力的とは言えないこのシーンが、ジョセフの異常性をもっともよく表していたと思う。

 たとえば殺人鬼が人体を切り刻むとか、モンスターが襲ってくるとか、そういうわかりやすい、派手な恐怖ではない。この映画に描かれているのは、「アパートの隣りの部屋に客が来るところは見るけど帰るところは見たことがない」「三日連続で帰り道に同じ人とすれ違っているような気がする」みたいな、地味で現実にありそうな、あなたの隣りでも起こりそうな、そういう恐怖だ。その手のホラー映画が好きな人は、まさにCreep(ぞっとさせる奴)なマーク・デュプラスに目を奪われてほしい。

 

ちなみに

 

・続編「クリープ2」も制作されており、こちらもネットフリックスで観られる。

 

・こういう動画で紹介されたのを見てこの映画を知りました。

Honorable mentionにある「ヴェロニカ」もネットフリックスで観られるらしい。

 

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・ジョセフ役マーク・デュプラスは「ブルージェイ」という映画にも出ている。大人になってから再会した高校時代の恋人同士の話。共演はサラ・ポールソン。デュプラスは脚本も担当。これが予告編だが、あ、あれ、デュプラスさんが…素敵…?(おまえ失礼な)

※ネットフリックスで観られます。

 

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誰もが帽子にサンドイッチを隠している。「パディントン」

※ネタバレがあります。

 

 

 

予告編

 

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あらすじ

1958年に第1作が出版されて以降、世界40カ国以上で翻訳され、3500万部以上を売り上げるイギリスの児童文学「パディントン」シリーズを初めて実写映画化。真っ赤な帽子をかぶった小さな熊が、ペルーのジャングルの奥地からはるばるイギリスのロンドンへやってきた。家を探し求める彼は、親切なブラウンさん一家に出会い、「パディントン」と名付けられる。ブラウンさんの家の屋根裏に泊めてもらうことになったパディントンは、早速家を探し始めるが、初めての都会暮らしは毎日がドタバタの連続で……。「ハリー・ポッター」シリーズを手がけたプロデューサーのデビッド・ハイマンが製作。ニコール・キッドマンらが出演し、パディントンの声は「007」シリーズのベン・ウィショーが担当。(映画.comより引用)

 

実は原作が苦手なんだな

 

告白すれば、原作の「パディントン」が苦手だった。繰り返される「暗黒の地ペルー」という言葉に、そこから来たもの言う熊がイギリスで巻き起こす騒動に、遠い異国からやって来た、違う文化を持った人々への差別的なまなざしを感じずにはいられなかったのだ。原作を手に取ったのはもう何年も前、大学生の頃だっただろうか。まあ当時からめんどくさいことを考えがちな人間だったのである。

 そんなわけで、少しだけ構えて観た。特にお風呂でのくだり(歯ブラシを耳に使う、シャワーと戦う、など、「文明の利器を理解していない」描写ですね)や、元々の名前が熊ゆえに人間には発音が難しいため、人間が呼びやすい名前を割と適当につけられるところなどに、内心ひやひやしながら観た(たとえば外国の映画やドラマに出てくる日本人の名前がやたら「トシ」とか「ヒロ」とか、正式な名前を縮めたようなものであることにもやもやするのと通ずるところがある)。お前はそんなことはスルーして純粋にCGのもふもふの熊が騒動を引き起こすキッズ映画を楽しめばいいのではないか。声なんかベン・ウィショーだぜ。しかし性分なのでいろいろと考えることなしには観られないのである。

 ミスター・ブラウンや隣人カリー氏がパディントンに向ける「異物を見る目」は、現実世界で移民が向けられるであろうまなざしと重なる。やつらは危険だ。うるさい。関わりたくない。さて、はたしてこの物語はここからどこへ向かうのか。多かれ少なかれ原作がそうであったように、ただ野蛮な国からやって来た文化的でない生き物が巻き起こす騒動を面白おかしく描いて笑いものにする話で終わるのか?

結論から言えば、そうではなかった。この映画、いい意味で、原作とは別物になっているではないか……!

 

私たちは同じなのだということ

 

まずいいなあと思ったのは、ジュディが語学に堪能であり、彼女だけはパディントンの「熊語」を発音、理解できるというところ。さらっと出てくるんだけれども、これは重要なポイントである。熊が人間に合わせて人間の言葉をしゃべるだけではなくその逆もやればできるのだということを、そしてこの子はそれをやろうとしているのだということを、映画の作り手はさらりと見せてくれた。向こうが自分たちの言葉を話すのを当たり前とみなすのではなくて、相手の言葉を覚えてそれでものを言おうとする、その時ふたりは対等になるのだ。ジュディがパディントンと築こうとしているのはそういう関係だ。

そして雨に濡れたパディントンがロンドン名物のあの黒い帽子をかぶった兵隊に雨宿りさせてもらうところ。ここはめっちゃ笑える場面なのだが、この兵隊さん、あのでかい帽子の中からサンドイッチを取り出すのですよ。パディントンが大事なマーマレードのサンドイッチを帽子の中に隠しているように。所は違い、種族は違えど、誰もが皆帽子の中には大事なサンドイッチを隠しているのです。これは真面目に言うのだが、ここは生きとし生ける者すべてのつながりを表す名場面なのです。

 

ミスター・ブラウンとChosen Familyとリナ・サワヤマとエルトン・ジョン

 

そしてそして、屋上のシーンで、「家族ですって?種族も違うのに」と言うミリセントに向かって、ミスター・ブラウンが言う台詞。

「生まれが地球の裏側だろうが/種族が違おうが/皆パディントンが好きだ/だから家族なんだ」

ミスター・ブラウン、それめっちゃ「Chosen Family」やないかい……!

 

www.youtube.com

上の動画で英国で活躍するアーティストのリナ・サワヤマとエルトン・ジョンがデュエットしている「Chosen Family」という歌は、リナ・サワヤマがLGBTQ+の人々を想って書いたという歌だ。

 

spincoaster.com

血のつながった家族から理解されず、家を追い出されたり虐待を受けたりすることも少なくないLGBTQ+の人々は、自分たちのコミュニティの中で家族を築き支え合ってきた。”Chosen Family”とは本来そういう家族を指す言葉である。

だが、リナ・サワヤマが体験したこと、そしてその体験を経て、元々のバージョンをリリースしてから約一年後に上のデュエットバージョンをリリースしたことを考え合わせると、そこにはもう一つの意味が立ち上がってこないだろうか。

リナ・サワヤマが2020年にリリースしたファースト・アルバム、「SAWAYAMA」は非常に高い評価を受けた。「Chosen Family」もこのアルバムに収録されている。

しかし、それにもかかわらず、彼女は英国の音楽に与えられる賞、ブリット・アワードやマーキュリー賞にはノミネートされなかった。なぜか。彼女は日本出身で日本国籍を有しており、英国籍を持っていなかったからだ。子どもの頃から二十年以上英国に暮らしていて、「ここでの暮らししか覚えていない」のに。

「多くの移民たちがこういうふうに感じていると思います――同化し、ブリティッシュ・カルチャーの一部になった場所で…ノミネートされる資格さえ私たちにはないのだと言われるのは、酷いよそ者扱いだと」

I think a lot of immigrants feel this way - where they assimilate and they become part of the British culture... and to be told that we're not even eligible to be nominated is very othering."

 

 

その後彼女の声は聞き届けられ、ブリット・アワード及びマーキュリー賞の選考基準は改められた。新基準の下では、リナ・サワヤマも選考対象になる。

 

www.bbc.com

そしてリナ・サワヤマを早くから高く評価していたうちの一人がエルトン・ジョンだった。彼は2020年6月の時点で「SAWAYAMA」を「現時点で今年最高のアルバム」と言っている。

 

www.nme.com

以上の経緯を踏まえると、この歌詞が、文化の違いを超えて繋がる人々の姿にも重なって来ませんか。

 

同じ遺伝子や苗字を持っている必要はないの

あなたは

あなたは

私の選ばれた

選ばれた家族

We don't need to share genes or a surname

You are

You are

My chosen

Chosen family

 

 

 

種族の違うパディントンを家族だと言い切るミスター・ブラウンの姿に、私はこの歌詞を思い出して、泣きそうになってしまったのだった。

「違い」を指さして笑うのではなく、「違い」はあるけれど家族にはなれるんだよ。これがそういう物語になっていて、本当によかった。

 

ちなみに

 

・パストゥーゾおじさんの声はマイケル・ガンボン、ルーシーおばさんの声はイメルダ・スタウントン。豪華や。

 

・今となってはベン・ウィショー以外の声が考えられないけれども、パディントン役は当初コリン・ファースだった。パディントンが形になっていくにつれて、「私の声ではない」と悟った、とファース氏は語っている。

variety.com