映画を観る準備はできている。

映画についてのいろいろな話。

粉々になったわたしのかけらたち 「マイ・リトル・ゴート」

※ネタバレがあります。

※作品には性暴力の描写があります。

 

 

あらすじ

グリム童話に着想を得たダークメルヘン〜

オオカミに食べられてしまった子ヤギ達を胃袋から助け出すお母さんヤギ。しかし、長男のトルクだけが見つからない!

※本作品はマチュアコンテンツです。虐待についての表現を含む暴力描写がございます。ご了承の上でご視聴ください。(Brillia SHORTSHORTS THEATERのStoryより引用)

 

 

 

 

 

 

※もう一度ブログの執筆者からワンクッション。

 この短編映画には子どもに対する性暴力の描写があり、以下の感想もその内容にふれています。読まれる方によってはフラッシュバックなどを起こされるかもしれません。

 

 

 

 

感想

 つ、つらい。というのが鑑賞後の第一声だ。かわいらしいデザインのパペットたちが登場するアニメーションで描かれるのは、子どもに対するあまりにも残酷な虐待であるからだ。たった10分でどん底の気持ちに落とされ、そしていろいろなことを考えざるを得なくなる映画だ。

 

 私が気になったところはいくつかある。

※この「気になった」というのは「粗がある」とかそういう意味ではなく、「あれ?どゆこと?」と思った、と言う意味です。

 

1.腹を裂かれた狼はどうなったの?

 参考までに、この映画が基にしていると思われる有名なグリム童話「おおかみと七ひきの子ヤギ」の物語はこちら。

 

ja.wikipedia.org

 そしてこの映画、しょっぱなから狼が腹を裂かれて、中にいた、食われてしまった子ヤギたちは助け出されるのだ。しかしその後狼は、子ヤギたちが留守番をしている家にふたたびやって来る。

 ここで、「ん?」と思ったのは、「最初に腹を裂かれた後、狼はどうなったのか?」と思ったからだった。元ネタの童話では、狼は子ヤギのかわりに石を詰め込まれて腹を縫い直され、水に落ちて死ぬ。死んでしまえば当然ながら、もう同じことはできない。

冷静に考えれば、上で「ふたたび」と書いたが、「最初に腹を裂かれた、子ヤギを食った狼」と、劇中で人間の子を追いかけてやって来た「狼」が同じ狼であるとは、明言はされていないのだ。そもそも母ヤギは、人間の子を、完全に消化されてしまった自分の子ヤギと勘違いしているように描かれているので、最初の狼と二番目の狼が別の個体だというのは当然と言えば当然である。しかし...

 

2.子ヤギたちは実在するのか

 狼がやって来て身を隠そうとする時、子ヤギたちは一気にリアリティを失う。どう考えてもサイズの小さすぎる瓶に入ってしまったり、絵になったり。これはアニメ的表現なのか?かれらが体を持った存在ではないということを示しているのではないか?

 

3.母ヤギが狼を撃退するのに使った武器

 それは、このおとぎ話めいた物語において、母ヤギ(人間ですらない)が持っているにしては、あまりにも異質な武器ではないか。しかし真っ先に思い浮かぶその用途はなんだろうか。それは「防犯」ではないか。

 

4.最後に聞こえる音

 これもまた、この物語においてあまりにも異質な音であると思う。森の中に聞こえるこの音から連想したのは「行方不明者を探す捜索隊の存在」だった。

 

 これらの要素を考えあわせるとどういう物語が見えてくるだろうか。

 虐待に遭っている子どもがいる。それは作中にも描かれている通り、本当に恐ろしい、おぞましい仕打ちであり、子どもは深い深い傷を負う。その子は自分の一番深い傷を否定したい。なかったことにしたい。あの深く傷ついた子は私ではない。あの子は狼に食べられて死んでしまった。

 子どもは子ヤギたちを作り出す。自分とはちがう存在を。酷い目に遭ったのは子ヤギたちだ。自分ではない。だって自分は人間で彼らはヤギだから。

でも母ヤギは「子ヤギとして」自分を連れてきた。彼女は見たくない現実を見せようとする。自分の姿を見たくなくて裏返していた鏡は、逃げようとしたがためにひっくり返って傷ついた自分の姿を写し出す。変わり果てた自分の姿を見て悲鳴を上げる姉ヤギもまた、自分の分身だ。それぞれに傷を負いながら、襲われている自分を助けようと団結する子ヤギたちも。この襲われている自分を子ヤギたちが助けようとする場面は、実際に「今」起こっていることではなく、かつてあった被害を直視し、その体験によって植え付けられた恐怖との戦いを表したものではないだろうか。そして傷だらけの自分のかけらをかき集め、自分を襲ってくる相手を倒そうとする戦いに終止符を打ったのは、「おまえは深い傷を負った子ヤギである」という現実を突きつけた母ヤギだった。「傷を負っている」ということを受け入れなければ、その傷を癒すことはできないのだから。

戦いの後、母ヤギはまたしても外出する。鍵がいくつも取り付けられて、家の中は安全だ。狼がちゃんと童話どおりの結末を迎えたらしいことも示される。しかし、鍵が取り付けられたとしても母ヤギは外に出て行って子どもたちを置いていくのだ。ここには二つの意味があるのではないだろうか。自分のためには自分で戦うしかない、という意味。そして、たとえ今でなくともいずれはもっと現実と向き合わなければならないけれど、今は安全な場所にいて休んでもいいのだという意味。ラストに流れる、恐らくはいなくなった人間の子どもを探している人々の存在を暗示する音は、現実世界にはあなたを気にかけて助けようとする人がいるのだというメッセージではないだろうか。

いろいろな読み方のできる作品だと思うのだが、これが私の解釈である

 

 

ちなみに

・こちらがオフィシャルサイト。現在本作を見る方法はないようだが、上映/配信予定などがあればこちらにアップされるのではないかと思う。

mylittlegoat.tumblr.com

・見里朝希監督の作品「PUI PUI モルカー」公式サイトはこちら。かわいい。amazon primeなどの各種配信サービスなどで観られます。

molcar-anime.com