映画を観る準備はできている。

映画についてのいろいろな話。

例のアセクシュアル漫画を読んで激怒したアセクシュアル当事者が、7000字かけてそのグロさを叫ぶ文。

 

閲覧注意

 

 この文章はTwitter上で発表されたある漫画に対する感情を吐露するものである...と言うと、当然、「その漫画って、何?」と思うだろう。ごもっともです。私はここで、その漫画へのリンクを直接貼ることもできる。

 しかし私はこの漫画についてはそれをするまいと思う。自分の体験を振り返れば、とてもそのようなことはできないと思う。

 なぜか。私はその漫画を読んで、自分でもびっくりするほどのダメージを受けたからだ。

 その理由を説明するには、まず明らかにすべきことがある。

 この文章を書いている私のセクシュアリティは、恐らくアセクシュアルに分類される。そして今話題にしている漫画とは、アセクシュアルを扱ったものである。その扱い方があまりにあんまりだったので、私は(とっくの昔に成人したいい年の大人なのだが)自分でも引くくらいに泣き、Twitterで自分の感情を嵐のように吐き出し、「猫ちゃんとかマ・ドンソクとか見たいよう」と弱音を吐き、そして心優しいフォロワーたち(と数多の猫ちゃん写真)によって不死鳥のごとくよみがえった。そしてよみがえったら今度はめちゃくちゃ腹が立ってきたのでこの文章を書いている。

 まあそういうわけなので私はその漫画を直接貼ることはしない。できるだけ広めたくないと思うからだ。タイトルだけはここに記すが、警告したい。この漫画はアセクシュアルの人間を盛大に踏んづけるものである。あなたがもし私のようにアセクシュアルであり、アセクシュアルの人間に向けられた誤解と差別と暴力を見たくないのであれば、見ないことをおすすめする。ストーリー等はこれから明らかにしていくので、元の漫画を読んでいなくとも、この文章は理解できると思う。

 問題の漫画のタイトルは「恋をしない男に恋した女の話」という。

※作者がアカウントに鍵をかけたらしく、これを書いている時点では(削除されていないかぎり、フォロワー以外は)読めなくなっているようだ。

 

おわかりいただけただろうか…

 

 問題の漫画のストーリーは以下の通りである。

 

 学生時代(制服からして中学か高校であろう)に告白した智之に「自分は恋愛感情を人に持てない。誰かとキスしたいとかハグしたいとかまったく思わない」からと振られた千津は、それでも彼を追い続け、十二年後も同じ企業で研究している。そしてとうとう完成したのは無性愛者である智之を「恋愛脳」にする薬。千津は飲み物にその薬を混ぜて智之に飲ませようとするが、結局罪悪感が勝って途中でやめる。千津が眠り込んだ後、その薬を飲んだ智之は、千津を仮眠のためのベッドに運ぶ際、彼女にキスしそうになるが、すんでのところで正気に返る。

 

 上記のストーリー要約から、おわかりいただけただろうか。この漫画の問題が。

 以下、思いつく限りの問題を述べてみる。

 

薬を盛ってはいけません。

 

千津は振られた後も智之を想い続ける。まあそういうことはあるだろう。それはいい。智之が研究者になるからと自分も研究者を志し同じ企業に就職する。それもいい(としよう)。しかしそうやって彼を想い続けた結果千津が何をするかと言うと、無性愛者を「恋愛脳」にする薬を開発して彼に飲ませようとするのだ。理由は「彼とイチャイチャしたい」から。

この漫画の問題点は今の数行にほぼ凝縮されていると思うのだが、何が問題なのかを私なりに整理してみよう。

まず、ごくごくあたりまえのことを言おう。人に薬を盛ってはいけません。

パソコンのキーで叩きたくもない言葉だが、レイプドラッグによる性犯罪被害が、実際に現実の世界で起こっている。加害者は睡眠薬などを被害者の飲み物等に混入させ、意識を失わせ抵抗力を奪ったうえで犯行に及ぶ。被害者と加害者が顔見知りである場合も多い。また、被害者が犯行時に意識を失っていたためにそもそも被害に遭ったかどうかがわからなくなってしまう、証拠保全が難しいなど様々な問題がある。たとえばこの記事↓などを参照していただきたい。

 

www.nishinippon.co.jp

 

そういう現実がある中で、「好きな人に薬を盛ってイチャイチャしちゃおう!」をラブコメ調(を、作者は目指したのだろうと思う)で描いていいわけがあろうか。いやない。

念のため言っておくと「イチャイチャ」の中身を妄想した千津の頭の中では、自分が智之に押し倒されるシーンが繰り広げられており、性行為が暗示されている。薬の効能で他人に望まない性行為(智之は最初千津を振った後、何度も同じ理由で彼女を拒んできたことが語られている)を行わせようとするそのあまりなグロテスクさにドン引きである。はっきり言うが千津がやろうとしているのはレイプドラッグを用いた性犯罪以外の何ものでもない。そして作者はそれをコメディとして描こうとしているのだ。

 

売り物としての無性愛者

 

そして上の「薬を盛ってはいけません。」を読んで、「ん?」と思ってほしい。

智之が無性愛者である必然性が、はたしてあるだろうか?

そう、この物語では、智之が千津を「タイプじゃないから」と言って拒絶し続ける異性愛者の性愛者であってもなんの問題もない。その場合千津が作るのは飲んだ者が近くにいる人間を好きになる惚れ薬とかになるのだろうが、違いはそれくらいだ。

ここで声を大にして言っておきたいのは、マイノリティがフィクションに登場する時、必然性なんか必要ないということである。いや、「無性愛者である必然性」とか言っといてお前思いっきり矛盾してない?と思うかもしれないが最後まで聞いてほしい。「マイノリティがフィクションに登場する時必然性なんか必要ない」というのはどういうことかと言うと、たとえばミステリーの名探偵や、強くてかっこいいヒーローや、同じクラスのちょっとダメだけど気のいいアイツや、フィクションに数限りなく登場するそういった人物が、特に何の理由もなくマイノリティであって何が悪いんだ文句でもあんのか言ってみろやコラ、ということである。マイノリティはただでさえ「マイノリティがマイノリティであるがための苦しみを味わう物語」に登場させられがちである。そういった物語はそういった物語でもちろん存在していていいのだが、今、いろいろなマイノリティが求めているのは、「マイノリティが、マイノリティをテーマにしているのではない物語に、フツーに存在する姿」である。たとえば「オールド・ガード」は死んでもよみがえる不死者たちの物語であり、アクション映画に分類されるべき映画だが、不死者のうち二人は男性カップルである。ストーリー上、別にこの二人が恋人同士である必要はない。親友同士であってもいい。でもこの二人は何のごまかしもなく、はっきりと恋人同士として描かれる。「なんでアクション映画にわざわざゲイカップルなんか出すんだよ。ポリコレか?」とか思った人、胸に手を当ててよく考えてみてほしい。これが男女のカップルだったらあなたは「なんでわざわざ男女カップルなんか出すんだよ」と思っただろうか?そうゆうとこやぞ。

 

www.netflix.com

(「オールド・ガード」はNetflixで観られるよ!おすすめだよ!)

 

閑話休題。で、問題の漫画だが、無性愛者である必然性がまったくないにもかかわらず、作者が智之を非性愛者に設定したのはなぜだろうか。これはマイノリティ当事者が切望する「マイノリティが、マイノリティをテーマにしているのではない物語に、フツーに存在する姿」なのだろうか。

んなわきゃないのである。この漫画はたとえ性愛者に対して惚れ薬を盛ろうとする話であったとしても上記の批判は免れないものだ。しかし性愛者に対して惚れ薬を盛ろうとする話であったとすれば、そんなもんクソ面白くもなんともなく、世に溢れかえっているので、ここまで拡散されることはなかっただろう。この漫画がここまで拡散され批判されることになった理由。それは「性愛者が無性愛者を『恋愛脳』にする薬を盛ろうとする話」だからだ。この漫画のオリジナリティはそこにしかない。つまりこの漫画は「無性愛」というマイノリティ性で「売ろう」としている作品なのである。

 世の中にはコンバージョン・セラピーというものがあってだな

 

そして、たぶんこの漫画の一番グロテスクなところがここである。千津が作ったのは「無性愛者を『恋愛脳』にする薬」。

私は言いたい。「なあ、コンバージョン・セラピーって知ってるか?」

こちらの記事↓(ごめんね英語です)などを読んでいただきたいのだが、コンバージョン・セラピーとは個人の性的指向ジェンダーアイデンティティを「矯正」するための行為を指す。嫌悪療法(望ましくない行為をしたら痛みを与える)、トーク・セラピー(あなたの性的指向ジェンダーアイデンティティは幼少時の虐待等のせいだと主張するなど)などのやり方があるそうだ。そんなもので性的指向ジェンダーアイデンティティって「治る」の?答え。

No credible scientific study has ever supported the claims of conversion therapists to actually change a person’s sexual orientation.

ある人物の性的指向が実際に変わるというコンバージョン・セラピストの主張を支持する、信頼に足る科学研究はない。

 

 

 

www.thetrevorproject.org

 

 更に、コンバージョン・セラピーは有害な影響を与える。こちらの統計によれば、LGBTQの若者で、自殺を試みたことのある人は、コンバージョン・セラピーを受けたことがない人で12%(これでもぞっとするような数字だ)、コンバージョン・セラピーを受けたことのある人では28%にのぼる。

 

www.thetrevorproject.org

 

 つまり現実にいる性的指向ジェンダーアイデンティティがマジョリティと異なる人々の中には、科学的に効果が保証されているわけでもない「治療」を受けさせられて自殺を図るまでに追い詰められている人たちが少なからずいる。自らを否定されるコンバージョン・セラピーが、かくも人を傷つけるものなのだということが、わかっていただけただろうか。漫画の話に戻ると、千津が作る「無性愛者を『恋愛脳』にする薬」とは、無性愛者の無性愛という性的指向を、性愛者の「イチャイチャしたい」という身勝手な欲望のために勝手に転向させるものである。しかもその転向は成功し、智之が性的欲求を覚える描写がある。この漫画で「無性愛者を『恋愛脳』にする薬」を飲むということはつまり、コンバージョン・セラピーを受けなおかつそれが成功するということなのだ。

 アセクシュアルである私がこの漫画を読むことで見たもの。それは、性愛者のおぞましい欲望のためにアセクシュアリティが「治療」される薬が作られ、その薬を飲んだ自分と同じアセクシュアルの人間がまんまと「治療」される瞬間だった。控えめに言っても吐き気がするぜ。

 

「無性愛者を『恋愛脳』にする薬」について考えてみると

 

 というか「無性愛者を『恋愛脳』にする薬」は「他者への興味」を「性的欲求」に繋げるらしいのですが、私性愛者の皆さんに訊いてみたいんですけども、皆さんは「興味のある他者」(兄弟とか友だちとか後輩とか)みんなに性的欲求を抱いていらっしゃるんですか?違うよね?ということは「無性愛者を『恋愛脳』にする薬」は「無性愛者を性愛者にする薬」ではなくて「興味のある他者に対して(恋愛感情などなくとも)強制的に性的欲求を抱かせる薬」ということでOK?考えれば考えるほどグロい薬だなおい!!

 

自分は麦茶が飲みたいっす先輩!

 

 突然だが私はアルコールが駄目な人である。同じくアルコールが駄目な人には「わかる」と言ってくれる人も多いと思うのだが、飲み会に参加していると、「善意で」アルコールが飲めるようにすすめてくれる人というのが世の中には一定数存在する。

 ここで話題にしているのは、一気飲みを強制したり飲み比べをけしかけてきたりする悪質な人びとではない。本当に「善意で」こちらがアルコールが飲めるようになればと「ちょっと試しに飲んでみない?」とビールをすすめたり、「やっぱり大人になったらお酒を飲む楽しさがわかるようにならなきゃね」と言ってきたりとかする人たちのことだ。

私は今怒っているので正直に感情をあらわにして言うのだが、この人たちがしていることはクソだ。

わかりやすく表すと以下の通りである。

 

「私たちはお酒が好き」→わかる。全然問題ないぜ。

「お酒飲むの楽しい」→わかる。全然問題ないぜ。

「だからお酒を飲む楽しさをお酒を飲めないあなたに教えてあげる」→なんでそうなるんじゃクソが。問題大ありだわ。

 

世の中では、大人になったらある程度は酒をたしなむ。そうする人が多数派でありそうすることは当たり前である。その多数派にとっての当たり前を、少数派はいとも無邪気に押しつけられるのだ。

「酒を飲む」を、たとえば「結婚する」「子どもを持つ」などに変えてみたら、「わかる」人もいるのではないだろうか。「アセクシュアリティ」も同じである。「結婚しない人」が「結婚っていいよー。してみたらわかるって」、「子どもを持たない人」が「子どもっていいよー。作ってみたらわかるって」と言われてきたように、「アセクシュアルの人間」も「恋愛/性行為っていいよー。してみたらわかるって」と言われてきたのである。

 自分がやって楽しい○○を、○○をしない人々に善意ですすめる全人類に問いたい。

 「○○しない人」が「○○しない」ことによって、あんた何か困るわけ?

 「○○しない人」は自分が「○○しない」だけである。いや「私は○○しないのであなたもしないで」と言う人も中にはいるかもしれんが、少なくともアセクシュアルの人間は自分が「恋愛/性行為をしない」と言っているのであって、「お前も恋愛/性行為をするな」と言っているわけではない。あんたの人生は「恋愛/性行為」によって豊かになり、あんたはそれで幸せなのかもしれないが、私たちは「性愛者の恋愛/性行為のある豊かな人生」から「恋愛/性行為」をマイナスした不完全な人生を生きているわけではない。私たちの人生は「恋愛/性行為」のない状態で完全なのであり、あるべき姿から何かが欠けているわけではない。

 早い話が、「俺は麦茶が飲みたいんすけど。先輩はビール好きだからビール飲んどきゃいいじゃないっすか。なんで俺にまでビール飲ませようとするんすか?」ということだ。

 

俺たちはディストピアに生きている

 

 そしてこれは見逃されがちな点かと思うのだが、私が恐ろしいと思うのは、この「無性愛者を『恋愛脳』にする薬」が、そもそも作られたということなのだ。

 一つの薬を作るまでにはたいへん長い道のりが待っている。このへんのサイトなどはわかりやすくまとまっているかと思う。

 

www.ds-pharma.co.jp

 基礎研究に2~3年、非臨床試験に3~5年、臨床試験に3~7年、承認申請と発売に1~2年...

 この「無性愛者を『恋愛脳』にする薬」が完成するには、何百億何千億の資金と、それだけの歳月が必要だったはずだ。私が考えたいのは、「無性愛者を『恋愛脳』にする薬」などというものに、それだけの予算が下りたのはなぜなのか?だ。

 実は作中で智之も「よく研究費おりたよな…」と言っている。私はそれに続く台詞を読んで「うへえ」となった。

少子化が深刻だからか…?」

う、うわあ。でもこの少し前の部分に、千津が薬の効果は「もって3時間程度」と言う場面がある。それを考え合わせると、見えてきませんか…この薬に「研究費を出す価値」が見出される理由が...

無性愛者を一時的に『恋愛脳』にして、少子化解消のために、子作りさせるためじゃね?

おいおい...もしそうだとしたらツッコミどころ満載だぜ…

無性愛者、アセクシュアル、と言ってもいろいろあって、それはこちらに(またしても英語だよごめんね)くわしい。

 

www.healthline.com

まあ上のページからもわかるように、無性愛者にも、「性的に他者に惹かれることはないが恋愛関係は持ちたい」人、「深い繋がりのある人になら性的な興味が湧く」人、などなどいろいろな人がいる。「パートナーのため」「子どもを持つため」になら性行為を行う、という人も。

そしてそういった諸々や、そもそも無性愛で何が悪いんだ問題や、無性愛者の人権などなどを全部まるっと無視して強制的に無性愛者に性愛を「わからせてくださる」この薬、マジのマジで(誤った)少子化解消のための方策としか私には読めないのだが…それ以外にこの薬の使いどころがありますか…

 「たかが漫画の話だし、少子化解消で予算が下りたなんて書かれてないし、考えすぎだろ」と言う人、うんその通りだよね。でもね知ってますか、「L(レズビアン)とG(ゲイ)が足立区に完全に広がってしまったら、子どもが1人も生まれない」発言があったのって2020年だぜ。「無性愛者なんぞ認めたら子どもが1人も生まれない」と考える人が出てこないって言えます?私は言えないぜ。この現実も、「無性愛者を『恋愛脳』にする薬」を何百憶何千億かけて作る漫画内現実も、人は性愛者であるべき性行為/恋愛を行うべき行わないやつは「治療」してやるを地で行くディストピアですぜ…つうか少子化解消したいなら女性の産後復帰がしやすい制度とか子育てしやすい環境作りとかやること他にあるだろうが。

 

www.tokyo-np.co.jp

 

おわりに

 

今回のこの文章は最初に説明した通り、自分の性的指向を踏んづけまくる漫画をうっかり読んでしまった人間が、ほぼ自分のために、セラピーとして書いたものだ。どんな形であれ誰かのためになるかはわからないが、マイノリティをマイノリティとして尊重することをせず、自らの欲求のためにマイノリティがマイノリティであること自体を許さないことのグロさを感じてもらえたらこちらとしてはうれしい。書きたいことは全部書けたのでたいへんすっきりしました。

 

※4月20日追記

ここまで読んでくれた方にお願いがあります。この次の投稿「クソはクソなのでクソだと叫ぼう―「激怒ブログ」を読んだ人にお願いしたいこと」も読んでいただけないでしょうか。お願い!

herve-guibertlovesmovies.hatenablog.com

※2022年4月6日、日本語の用語が不正確だったため訂正しました。

義実家のしきたりなどクソくらえ!「レディ・オア・ノット」

 

※ネタバレがあります。

 

 

予告編

 

www.youtube.com

日本語字幕付きの予告編はこれしか見つからず。字幕なしの長いバージョンはネタバレしすぎじゃなかろうかと思うのでこちらを貼っておきます。

 

あらすじ

 

生死を賭けたサバイバルゲームで富を築く大富豪一族に嫁いだ花嫁が、一族の伝統儀式と称する命懸けの「かくれんぼ」に巻き込まれる姿を描いたリベンジアクション。大富豪一族に嫁ぐことになったグレースは、結婚式の日の夜、一族の一員として認めてもらうための伝統儀式に参加することになる。その儀式とは、一族総出で行われる「かくれんぼ」だった。夜明けまで逃げ続けるように告げられたグレースは戸惑うが、やがて一族全員が武器を手に自分の命を狙っていることを知る。訳も分からず絶体絶命の状況の中、グレースも戦うことを決意するが……。監督はホラー映画を得意とする製作集団「ラジオ・サイレンス」の一員でもあるマット・ベティネッリ=オルピンとタイラー・ジレット。主人公グレース役は「スリー・ビルボード」のサマラ・ウィービング。(映画.comより引用)

 

 

 

感想―ホラー映画としての「レディ・オア・ノット」

 最後まで楽しく観られた一本。義実家を訪れた女性が大勢を敵に回して奮闘する、と聞くと「サプライズ」(アダム・ウィンガード監督)を思い出してしまう。「サプライズ」のエリンはある事情からサバイバルスキルに長け、「なんでそこでそうしちゃうのー!!」というホラー映画あるあるのもどかしさを覚えさせない、ハイレベルにできる主人公であり、彼女が戦わねばならないヴィランたちもまた、プロフェッショナル感のあるできる奴らであった。しかし「レディ・オア・ノット」では、主人公グレースも、彼女が敵に回す義実家の人たちも、そこまでハイレベルな殺人スキルに長けてはおらず、「うっかり」で死亡する人がほとんどであり、その死にざまがユーモアになって(!)いて、えげつないホラーが苦手な人でも見られるくらい、ホラーレベルとしては低めに仕上がっている(途中でイタタタタなシーンはあるけれども)。折れた柵や麻酔銃を回収しなかったりと、つめのあまいところもあるのだが、ウェディングドレスの裾を破り、走ったり落ちたり格闘したり、サマラ・ウィーヴィングは鬼気迫る姿を見せてくれた。

 

感想―泥沼離婚劇としての「レディ・オア・ノット」

 さて、ここからが本題である。本作は、夫の家のしきたりのことをまるで知らずに結婚した妻が、そこでのあまりに前時代的、非倫理的な仕打ちに耐えかねて離婚するまでを描いた物語だ(いろいろ省いてはいるが、この要約は間違ってはいないと思う)。グレースの夫アレックスははじめのうちは少なくとも同情すべき点のある味方として描かれるが、実は最初から難ありまくりの夫である。自分と結婚することによってグレースが命の危険に晒される可能性があると知っていたのであれば、最初からそれを明かした上で結婚するか否かの判断は彼女に任せる/そもそも結婚を選ばず恋人のままでいるという選択肢はあったにもかかわらず、前者の選択肢は「グレースを失いたくないから」後者の選択肢は「グレースが結婚を望んだから」と、アレックスはどちらも選ばない。グレースが何も知らない状態で儀式に臨み、限りなくアンフェアな状況の中で生き残りを賭けたゲームに参加することになったのは、まさにアレックスが「どちらも選ばなかった」からだ。母親との会話で、「グレースが死んだらあなたを殺す」と勇ましいことを言っておきながら、殺されそうになったグレースが反撃して母親を殺すと、一転して家族と一緒になってグレースを殺そうとするのもそう。アレックスは家のしきたりに従いたくないと口では言いながら、結局は自分の家の「色」にどっぷり染まってしまってそこから抜け出せない男なのだ。ここまで極端な話でなくとも、似たような話はそこらへんに転がっている。なんと多くの人が、結婚した後になって、義家族に酷い仕打ちを受けたのにもかかわらず自分の夫/妻が自分ではなく義家族の味方をして傷ついたという話をしているだろうか。この物語が痛快なのは、「昔からうちではこうだから」という、理解しがたいルールをこちらに強制しようとする(そのためにかつて愛する人を失ったエレーヌまでが今度はそのルールを新入りに強制しようとするあたり業が深い)義家族が、結局はグレースという新たに家族の一員になるはずだった人間による反抗のせいで破滅する姿を描いているからだ。ラスト近くの展開については、アレックスは最後までグレースの味方をしていればああはならなかったのではないかと思う。血によって結ばれた家族をとるか自分で選び取った妻をとるか、態度をはっきりさせないからああなるのです。

 

ちなみに

主演のサマラ・ウィーヴィング、おじはヒューゴ・ウィーヴィングだそうです。

たとえ馬に乗れないライダーだとしても。 「ザ・ライダー」

※ネタバレがあります。

 展開にびっくりしたりするような映画ではないのですが、個人的にはあまり前情報を入れない方がいいような気がします。

 

あらすじ

命を危険にさらすとわかりながらも、捨てきれぬロデオへの想い。事故で大怪我を負ったカウボーイは、後遺症による恐怖と葛藤しながら、新たに生きる意味を探す。(Netflix公式サイトより引用)

 

感想

いいものを観た。まず映像がとにかく美しい。どこまでもどこまでも果てなく続いているかのような荒野を、物言わぬ馬という生きものの激しさとうつくしさを、驚嘆を禁じ得ないよな鮮やかさで映し出すジョシュア・ジェームズ・リチャーズのカメラ。リチャーズは本作の監督クロエ・ジャオの新作「ノマドランド」でも撮影を担当し、アカデミー賞にもノミネートされているのだが、それも納得である。主人公のブレイディが生まれ育ち、その一部であるような荒野と、彼がどうにか馴染もうとする外の世界の象徴としてのスーパーの、人工的な照明が照らし出す「つくりもの」感の対比よ。大量生産の商品を棚に並べていくブレイディは、まるでエリザベスカラーをつけられたけもののように痛々しく滑稽だ。ここはどうしたって彼の世界ではない。

しかしこの映画が素晴らしいのは、自分の属する世界を失ってしまった青年が、絶望や自暴自棄を、その果ての自死や自らの安全を顧みない危険な行為を、選ばないことだ。ブレイディはアポロを殺せない。たとえその引き金が、結局は彼の父によって引かれるのだとしても。なぜならアポロはブレイディ自身だから。傷つき、本来あるべき姿でいられず、やるべきことをやれなくなったブレイディそのものだから。ブレイディは自分を殺すことができないのだ。

とはいえその後もブレイディは揺らぐ。やはり自分のいる場所はロデオ会場ではないか。馬の上ではないか。カウボーイは馬に乗るべきだ。馬に乗れなくなったらその時は...その時は? 銃をこめかみにあてるのか? 危険だとわかっていながら、怪我をした体でそれでも馬に乗るのか?

ブレイディの選択はそのどちらでもない。馬の背に揺られ、風を感じ、荒馬にまたがることが、もはや彼にはできない。けれどそれでも彼は、生きていく。生きていていいのだ。父親と抱擁したあの時に、ブレイディはもう馬に乗ることのできない自分を、やっと許すことができたのだ。

 

ちなみに

 

・クレジットを観てびっくりしたのだが、この映画は主演のブレイディ・ジャンドローの実体験を基にしている。彼だけではなく、妹役は実際の妹が、父親役は実際の父親が演じている。レインも実際に同じ境遇にあるブレイディの親友だそうだ。

このあたりはこちらの記事に詳しい。

 

www.rollingstone.com

 

・クロエ・ジャオ監督の新作「ノマドランド」でも同様の手法が取られているらしい。

 

・そしてクロエ・ジャオ監督の次回作と言えばマーベルの「エターナルズ」である。機密条項があったために、オファーを受けるまで脚本を読ませてもらえなかったサルマ・ハエックは、クロエ・ジャオ監督が大好きだからとオファーを受けたそうです。いったいどんな映画になるんだ。

 

variety.com

粉々になったわたしのかけらたち 「マイ・リトル・ゴート」

※ネタバレがあります。

※作品には性暴力の描写があります。

 

 

あらすじ

グリム童話に着想を得たダークメルヘン〜

オオカミに食べられてしまった子ヤギ達を胃袋から助け出すお母さんヤギ。しかし、長男のトルクだけが見つからない!

※本作品はマチュアコンテンツです。虐待についての表現を含む暴力描写がございます。ご了承の上でご視聴ください。(Brillia SHORTSHORTS THEATERのStoryより引用)

 

 

 

 

 

 

※もう一度ブログの執筆者からワンクッション。

 この短編映画には子どもに対する性暴力の描写があり、以下の感想もその内容にふれています。読まれる方によってはフラッシュバックなどを起こされるかもしれません。

 

 

 

 

感想

 つ、つらい。というのが鑑賞後の第一声だ。かわいらしいデザインのパペットたちが登場するアニメーションで描かれるのは、子どもに対するあまりにも残酷な虐待であるからだ。たった10分でどん底の気持ちに落とされ、そしていろいろなことを考えざるを得なくなる映画だ。

 

 私が気になったところはいくつかある。

※この「気になった」というのは「粗がある」とかそういう意味ではなく、「あれ?どゆこと?」と思った、と言う意味です。

 

1.腹を裂かれた狼はどうなったの?

 参考までに、この映画が基にしていると思われる有名なグリム童話「おおかみと七ひきの子ヤギ」の物語はこちら。

 

ja.wikipedia.org

 そしてこの映画、しょっぱなから狼が腹を裂かれて、中にいた、食われてしまった子ヤギたちは助け出されるのだ。しかしその後狼は、子ヤギたちが留守番をしている家にふたたびやって来る。

 ここで、「ん?」と思ったのは、「最初に腹を裂かれた後、狼はどうなったのか?」と思ったからだった。元ネタの童話では、狼は子ヤギのかわりに石を詰め込まれて腹を縫い直され、水に落ちて死ぬ。死んでしまえば当然ながら、もう同じことはできない。

冷静に考えれば、上で「ふたたび」と書いたが、「最初に腹を裂かれた、子ヤギを食った狼」と、劇中で人間の子を追いかけてやって来た「狼」が同じ狼であるとは、明言はされていないのだ。そもそも母ヤギは、人間の子を、完全に消化されてしまった自分の子ヤギと勘違いしているように描かれているので、最初の狼と二番目の狼が別の個体だというのは当然と言えば当然である。しかし...

 

2.子ヤギたちは実在するのか

 狼がやって来て身を隠そうとする時、子ヤギたちは一気にリアリティを失う。どう考えてもサイズの小さすぎる瓶に入ってしまったり、絵になったり。これはアニメ的表現なのか?かれらが体を持った存在ではないということを示しているのではないか?

 

3.母ヤギが狼を撃退するのに使った武器

 それは、このおとぎ話めいた物語において、母ヤギ(人間ですらない)が持っているにしては、あまりにも異質な武器ではないか。しかし真っ先に思い浮かぶその用途はなんだろうか。それは「防犯」ではないか。

 

4.最後に聞こえる音

 これもまた、この物語においてあまりにも異質な音であると思う。森の中に聞こえるこの音から連想したのは「行方不明者を探す捜索隊の存在」だった。

 

 これらの要素を考えあわせるとどういう物語が見えてくるだろうか。

 虐待に遭っている子どもがいる。それは作中にも描かれている通り、本当に恐ろしい、おぞましい仕打ちであり、子どもは深い深い傷を負う。その子は自分の一番深い傷を否定したい。なかったことにしたい。あの深く傷ついた子は私ではない。あの子は狼に食べられて死んでしまった。

 子どもは子ヤギたちを作り出す。自分とはちがう存在を。酷い目に遭ったのは子ヤギたちだ。自分ではない。だって自分は人間で彼らはヤギだから。

でも母ヤギは「子ヤギとして」自分を連れてきた。彼女は見たくない現実を見せようとする。自分の姿を見たくなくて裏返していた鏡は、逃げようとしたがためにひっくり返って傷ついた自分の姿を写し出す。変わり果てた自分の姿を見て悲鳴を上げる姉ヤギもまた、自分の分身だ。それぞれに傷を負いながら、襲われている自分を助けようと団結する子ヤギたちも。この襲われている自分を子ヤギたちが助けようとする場面は、実際に「今」起こっていることではなく、かつてあった被害を直視し、その体験によって植え付けられた恐怖との戦いを表したものではないだろうか。そして傷だらけの自分のかけらをかき集め、自分を襲ってくる相手を倒そうとする戦いに終止符を打ったのは、「おまえは深い傷を負った子ヤギである」という現実を突きつけた母ヤギだった。「傷を負っている」ということを受け入れなければ、その傷を癒すことはできないのだから。

戦いの後、母ヤギはまたしても外出する。鍵がいくつも取り付けられて、家の中は安全だ。狼がちゃんと童話どおりの結末を迎えたらしいことも示される。しかし、鍵が取り付けられたとしても母ヤギは外に出て行って子どもたちを置いていくのだ。ここには二つの意味があるのではないだろうか。自分のためには自分で戦うしかない、という意味。そして、たとえ今でなくともいずれはもっと現実と向き合わなければならないけれど、今は安全な場所にいて休んでもいいのだという意味。ラストに流れる、恐らくはいなくなった人間の子どもを探している人々の存在を暗示する音は、現実世界にはあなたを気にかけて助けようとする人がいるのだというメッセージではないだろうか。

いろいろな読み方のできる作品だと思うのだが、これが私の解釈である

 

 

ちなみに

・こちらがオフィシャルサイト。現在本作を見る方法はないようだが、上映/配信予定などがあればこちらにアップされるのではないかと思う。

mylittlegoat.tumblr.com

・見里朝希監督の作品「PUI PUI モルカー」公式サイトはこちら。かわいい。amazon primeなどの各種配信サービスなどで観られます。

molcar-anime.com

 

「物語」は彼女を救う。「ゴーストランドの惨劇」

※ネタバレがあります。

※ネタバレがあります。

大事なことなので二回言いました!何も知らないで観た方がいいと思います。

 

 

 

予告編

この映画は予告編を見ないで観た方がいいと思うので貼りません。

 

あらすじ

マーターズ」の鬼才パスカル・ロジェが6年ぶりにメガホンをとり、絶望的な惨劇に巻き込まれた姉妹の運命を、全編に伏線と罠を張り巡らせながら描いたホラー。(中略)出演はテレビドラマ「ティーン・ウルフ」のクリスタル・リード、「ブリムストーン」のエミリア・ジョーンズ。(映画.comより引用)

※あまり内容を知らない方がいいと思うので編集しています。

 

感想

「物語」は人を救う。それは真実だ。しかし、恐ろしい運命に晒されたベスが書いた物語――惨劇は当の昔に終わり、それに囚われ続けているのは姉ばかりで、愛する母は普通に生きており、自分は夢見た通りホラー作家として成功して夫と子どももいる――は彼女を救わない。それは未だ彼女が置かれている恐ろしい状況から目をそらし、逃げ込むための偽りの夢だ。必死に逃げ出すも再び囚われて、またしても恐ろしい状況に追い込まれてしまった時、ベスの心は逃げ出す。誰が責められるだろう。彼女はまだ子どもだ。十代の、誰かに守ってもらうべき子どもだ。しかし状況が彼女に子どもであり続けることを許さない。そのままその甘美な偽りの中に閉じこもっていれば、姉も彼女も無残に殺されて終わっていただろう。だがベスはその道を選ばなかった。必死に彼女を呼び、現実と向き合わせようとしていた姉のために、彼女は偽りの夢を破り捨てておぞましい現実へと足を踏み出す。自分の命のために、未来のために、戦うために。ファイナルガールの登場するホラー映画とは、常にそういうものではなかったか。ラスト、救急車の中で、「スポーツをやってるの?」と訊かれ、ベスは答える。「いいえ、書くのが好き」物語が彼女を救うのはこれからだ。彼女はきっと「ゴーストランドの惨劇」を書くのだろう。自分を救うために。

 

残念なところ

 この映画、どんでん返しを含むストーリーはすごく好きだし、終わり方もいいと思うし、映像はきれいだし、よくできていると思うのだが、一つだけ残念なところがある。

 ヴィランがつまらない。

 この映画は2018年制作なのだが、今時サイコなヴィランの造形があれ。80年代くらいからよく見るあれ。「トランスジェンダーとハリウッド」を観た後ではこういう描写をスルー出来ない。もうこういうサイコキラーステレオタイプやめようよ、単につまらないしさ。

 そして映画を好きな人にこそ「トランスジェンダーとハリウッド」はおすすめである。

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偽りだらけのこの世界で、たった一つの真実。「新しき世界」

「新しき世界」を観た。

※ネタバレがあります。

 

 

予告編

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あらすじ

 

ラスト・プレゼント」のイ・ジョンジェ、「オールド・ボーイ」のチェ・ミンシク、 「甘い人生」のファン・ジョンミンが豪華共演し、韓国で470万人を動員した大ヒット作。韓国最大の犯罪組織に潜入捜査して8年がたつ警察官ジャソンは、自分と同じ中国系韓国人で組織のナンバー2であるチョン・チョンが自分に対して信頼を寄せていることを知り、組織を裏切っていることに複雑な思いを抱く。しかし、警察の上司カン課長の命令には従うしかなく、葛藤する日々を送っていたある日、組織のリーダーが急死。後継者争いが起こる。カン課長はその機に乗じて組織の壊滅を狙った「新世界」作戦をジョンソンに命じるが……。(映画.comより引用)

 

感想

 イ・ジャソンは偽りの世界で生きている。警官であることを隠し犯罪組織の一員として生き。警察の犬であると疑われて暴行を受け殺される犯罪組織の男を見殺しにし。(本人は知らないが)自分の子を妊娠している妻でさえ警察の監視員であり。カン課長が創り上げジャソンを巻き込んで進む「新世界プロジェクト」という大きな車の前では、ジャソンはたかがちいさな歯車に過ぎない。しかしその偽りの世界にたった一つ本物が混じっている。それがチョン・チョンとの友情だ。

 チョン・チョンはジャソンに会うたび「ブラザー」と呼ぶ。それは信頼の証しだ。親愛のしるしだ。ジャソンの正体を知り、警察の連絡係と組織内部に入りこんだ警察の犬を惨たらしく始末した後でも、それは変わらない。ジャソンは彼のブラザーであり、彼はジャソンのブラザーだ。カン課長はジャソンを利用するだけ利用する。その姿には、部下の最期の頼みを聞いて禁煙し、タバコを断る場面には、しかし悲哀が漂っている。大義のために自らの創り出した「新世界プロジェクト」の前でちいさな歯車に過ぎないのは、彼も、惨たらしく殺された彼の部下たちも変らない。カン課長は歯車としての役目をまっとうしようとした。彼にとってそれは、ジャソンをプロジェクトに必要なだけ働かせることを意味した。だからジャソンにとってチョン・チョンがそうであったもの、彼のブラザーにはなれなかった。チョン・チョンにとってジャソンは、あくまでも一緒に鉄砲玉として敵に突っ込んでいった友であり、組織よりも守るに値する者であり、死を迎える時そばにいてほしいたった一人だったからだ。

 ブラザー。それはまるで呪いだ。チョン・チョンが何かと構ってくるのに、捜査対象と距離を取らねばと自らに言い聞かせるようにジャソンはそっけなく対応する。そんなジャソンにくり返し発せられるその言葉は、しかし死にゆく男の口から発せられた時、愛の言葉になる。ブラザー。強くなれ。強く生きろ。これまで運命に翻弄されるばかりだったジャソンが、この映画で自ら動き出すのはここからだ。邪魔者を消し。真実を葬り。帰る場所をなくし。自分の本当の姿を知っていたたぶんたった一人の人を失ったまま、ジャソンは高みに上る。どうせそれも長く続きはしない。滅ぼされてもまた別の誰かがのし上がる、ここはそういう世界だ。しかし今はここが彼の居場所だ。ここは獣の世界であり、強くなくては生きていけず、彼は生きていかなければならない。ブラザーがそう言ってくれたのだから。

 

ちなみに

・ラスト近くの暗殺に使われたタクシーの運転手がどうなったのか気になるところである。

 

・イ・ジャソン役イ・ジョンジェとチョン・チョン役ファン・ジョンミンが再共演する”Deliver Us From Evil(英題)”が気になるところである。

IMDBページ↓

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予告編↓(英語字幕あり)

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IMDBのあらすじと予告編を見ると、殺し屋ファン・ジョンミンが自らと関係のある誘拐事件を解決すべくタイへ向かい、自分が殺した男のきょうだいに追われていると気づく、という話らしい。

このコミュニケーションの時代のディスコミュニケーションについて。「search サーチ」

「search サーチ」を観た。

※ネタバレがあります。

 

予告編

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あらすじ

 物語がすべてパソコンの画面上を捉えた映像で進行していくサスペンススリラー。16歳の女子高生マーゴットが突然姿を消し、行方不明事件として捜査が開始されるが、家出なのか誘拐なのかが判明しないまま37時間が経過する。娘の無事を信じたい父親のデビッドは、マーゴットのPCにログインして、InstagramFacebookTwitterといった娘が登録しているSNSにアクセスを試みる。だがそこには、いつも明るくて活発だったはずの娘とは別人の、デビッドの知らないマーゴットの姿が映し出されていた。「スター・トレック」シリーズのスールー役で知られるジョン・チョウが、娘を捜す父親デビッド役を演じた。製作に「ウォンテッド」のティムール・ベクマンベトフGoogleグラスだけで撮影したYouTube動画で注目を集めた27歳のインド系アメリカ人、アニーシュ・チャガンティが監督を務めた。(映画.comより引用)

感想

 この映画、触れ込み通り、すべてPC画面で構成されている。仲の良い微笑ましい家族の姿を描く冒頭から、失踪した娘の友人関係、SNS、行き先を探るところまで、我々はPC(及びインターネット)にこれほどの痕跡を残しているのだな、と正直少々ぞっとしてしまう。メッセージ、Facebook、Youchat(本当にあるのか?)Instagram、人と繋がる手段はこんなにもたくさんある。リアルで家族にも見せない顔を、リアルで家族に見せられないからこそ、SNS上の「友だち」に見せる、という行為がたやすくできる。今はそういう時代である。しかし多種多様なコミュニケーション手段を見せてはいるが、これはディスコミュニケーションについての映画だ。どれだけSNSで自分をさらし、友だちと繋がり、あるいは同じ家に住んでいる家族と日常的にメッセージのやりとりをしても、真に「繋がれる」かどうかはわからない。SNS上であなたを見ている友だちは実は自分で言っているのとは違う人物かもしれないし、生まれた時から知っていて毎日やりとりをしている相手はあなたの気持ちをわかってくれないかもしれない。マーゴットとのメッセージのやりとりで、デビッドはある一言を言えずに送信をやめる。マーゴットのYouChatの動画に残されていた、亡き妻の誕生日の彼もそうだ。この時デビッドは、本当はその日が何の日なのかについての話をしたかったのに、飲みこんで、当たり障りのないTV番組の話にすり替えているように見える。それを見たマーゴットも、失望した顔はすれど、死んでしまった母親の話をしようとはしない。キム親子のディスコミュニケーションは、このように、それぞれに言葉を飲みこんでしまったことに由来する。そして失踪したマーゴットともう一度繋がるために必要なのは、飲み込まれた言葉だ。もう一度彼女とコミュニケーションをとるために、今度こそデビッドは諦めない。そしてラスト、彼は吐き出すのだ。あの時どうしてもわが子に送ることのできなかったその一言を。

 

好きなシーン

・ネット上に亡くなった人の動画・写真をアップロードするサービスのための素材を選んでいて、デビッドは娘を理解できていなかったし救えなかった自分を、幼いマーゴットが「最高のパパ」と呼んでいる動画だけ削除し、他は全部アップロードする。自分は「最高のパパ」なんかじゃなかったという自責の念と、大事な娘の動画、写真を選ぶことなんてできないという愛情と…

 

ちなみに

 ・監督アニーシュ・チャガンティの新作“RUN”も不穏で面白そうである。

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・続編の製作が進行中の本作だが、続編ではまったく異なるキャラクターの物語が描かれるそうで、監督も本作で編集チームにいたウィル・メリックとニック・ジョンソンになるそうである。

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